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高雄 鳥海 木曾

【艦これ・高雄SS】鳥海「司令官さんが木曾さんを冷遇している?」

2017/03/03

鳥海「司令官さんが木曾さんを冷遇している?」

高雄「確証はありませんけど」

 同室の高雄姉さんと消灯前の緩やかな時間を過ごしているところでした。
 いつもは他愛のない話に花を咲かせるのですが、今日は毛色の違う話みたい。
 姉さんはあまり秘書艦の仕事の話をしてこなかったので、少し意外な気も。

高雄「提案されましたの、提督に秘書艦を変えたいと。その時の話なんだけどね」

 私は姉の話に耳を傾けました。
 実際、高雄姉さんも私に聞いて欲しいから話を切り出してきたのではないでしょうか。

 高雄姉さんの話は――今日の夕時まで遡ります。司令官さんの執務室で、当日の業務がほとんど終了した頃だそうです。

高雄「秘書艦の持ち回り、ですか?」

提督「ああ、そうだ。とりあえず、これが草案だ」

高雄「失礼します……時に提督、それは秘書艦である私に不安があるということでしょうか?」

提督「くくく……そうだな。人の育て方は大きく分けて二つあると俺は考えている」

高雄「……はあ?」

提督「長所をより伸ばし追随を許さないか短所を補い苦手を減らすかだ。君らの場合、得意なことは放っておいても勝手に伸びるタイプばかりだろうが、そうでないことは敬遠し続けますます苦手意識を強めるよう見える」

高雄「なるほど……」

 姉さんは紙面にも並行して目を通していたそうです。
 かいつまんだ内容は事務能力を不得手とするであろう艦娘を二人一組とし秘書艦としての仕事に就かせる。
 三週間ほど続けた後は組み合わせを代え、同じように繰り返す。
 三組目が終わった段階で最初の一組目から再度秘書艦の仕事に就かせ、その働きぶりを確認するというもの。
 それなりに長く時間をかけるつもりのようです。
 候補に挙げられているのは、提督の目から見て書類仕事には向いていないと思われている艦娘たちの名とのことでした。
高雄「それで事務仕事が苦手そうな子を?」

提督「ああ、幸いにも沖ノ島も落とせたし今は戦線も小康状態だ。力を蓄えるには絶好の機会というやつだよ。普段こなさない仕事は新鮮な視野を与えてくれる、と思う。それと高雄の懸念だが」

 司令官さんはどこかもったいぶったように笑ったそうです。どうも、あの人は仕種が芝居がかってるように思える時があります。

提督「君の働きぶりは申し分ないよ。むしろ俺よりうまく鎮守府を機能させるかもしれん。代わらないか?」

高雄「まあ、それは買い被りすぎですわ。提督あっての鎮守府ですのに」

提督「くくく……それこそ買い被りすぎだ。ともかくやってみようとは思うのだが、どうにも人選を決めかねていてな。そこで高雄の意見を聞きたいというわけだ」

高雄「そういうことでしたら。とりあえず候補の中から隼鷹さんは外していいと思います」

提督「ほう、それは何故だ?」

高雄「艦載機の運用は適当な人にはできませんわ。確かに隼鷹さんは普段がその……ヒャッハーって言うのですか? 世紀末風に弾けていますが、それを仕事に持ち込んだりはしませんわ。たぶん……ええ、たぶん」

提督「そこまで言ったんなら、はっきり断言してくれ。不安になるじゃないか」

 口ではそう言いつつも、提督は満足そうな顔だったのが印象的でした。とは姉さんの感想。

提督「やはり相談したのは正解だったな。では代わりに挙げるのなら誰がいる?」

高雄「そうですね……いわゆる槍働きは得意なのに領国経営は苦手そうな方をお望みでしょうから……木曾さんはどうです?」

提督「くくく……そう来るか。そう来たか」

 この時、姉さんは内心で進言が採用されると考えていましたが。

提督「木曾は許可できない。他を頼む」

高雄「そうですね、それでしたら――」

 ここで姉さんは話を切り上げました。

鳥海「それで木曾さんを挙げたら却下されたと?」

高雄「そうなの」

 姉さんの言い分は分かりましたけど、これって別に姉さんの考えを裏付けるものでもないような。

鳥海「でも、この場合なら木曾さんはしっかりしていると司令官さんが考えてるから外されたとも言えませんか? 先に出ていた隼鷹さんのように」

高雄「それはそうなんだけど」

鳥海「むしろ姉さんは木曾さんをそういう目で見てたんですか……?」

高雄「そ、それは別に悪気があったわけじゃ! ほら、あの人って生粋の武闘派だから机に向かう書類仕事は苦手だと思ったのよ……」

鳥海「私もそう思ってます」

高雄「……あなたも言うようになってきましたわね」

鳥海「それほどでは」

 いわゆる軽巡に当たる人たちは夜になると元気になる川内さんのように、戦いに関しては一家言を持つ人たちが多く木曾さんもそちらの類の人です。
 そういう人はどちらかと言えば勢い重視なので、姉さんが木曾さんの名前を挙げても特におかしいとは感じません。

高雄「でも、提督の反応がちょっと引っかかったのは確かよ。らしくなかったの」

鳥海「謎ですね……」

 相づちを打ったものの、そもそも私は司令官さんとも木曾さんとも接点があまりないので、いまいち二人の人柄というのが分かりません。
 姉さんは二人の間に何かあった、と考えてるようです。
 私もこんな話を聞いたら、そんな勘繰りくらいしたくなる。
 気にならない、なんて言ったら嘘になってしまいますから。
 でも、本当に何かあるならそれは二人の問題で、同じ鎮守府の戦友でもそう簡単に立ち入られるような話じゃないとは思います。

鳥海「ところで木曾さんの代わりにどなたを推薦したんです?」

高雄「摩耶。あの子、計算苦手だから」

鳥海「ああ……」

 摩耶――私たち四姉妹の中で三女、末妹である私には姉になりますが……本当は私のほうが姉で摩耶が妹のような気もしていますが、とにかく姉妹です。
 このあたりはお互いの記憶がはっきりしてないのですが、それを言い出すと高雄姉さんと愛宕姉さんもどちらが長女かちょっと曖昧で。
 どちらも大切な姉であるのに変わりないけど。
 それは摩耶も同じです。本当は私のほうがお姉さんのような気がしてますけど、やっぱり姉妹である事実は変わらなくて。
 私が摩耶を姉と呼べないのは内心では割り切れてない証拠……なんだと思います。

高雄「もっとも、次の秘書艦をどうするかは提督次第になりますわね。早ければ来週から交代、選考に時間がかかればその間は私のままね」

鳥海「姉さんは続けたいんですか?」

高雄「そうねえ、提督とのお仕事はなかなか有意義よ。変な笑い方をするし話が遠回りなこともあるけど、提督は最善を尽くしてくれる人よ。そういう人は信用していいと思うの」

鳥海「私は……最善を尽くせない人には命を預けたくも預かってほしくもありません」

高雄「そういう意味では大丈夫よ。あの人はちょっと慎重すぎるきらいもあるけど、逆に言えば無謀な作戦は絶対に採用しないし立案もしない、そんな提督さんだから」

 姉さんの口振りから本当に司令官さんを信用してるようでした。姉さんにここまで言わせる人なら、きっとそうなんでしょう。

高雄「そういう人の助けになるのは……よかったと思えますわ」

 そんな話をしている内に消灯時間になっていた。この時間になったら翌日に備えて夜勤当直者以外は眠りにつく。
 もちろんそれは表向きの話で、消灯時間を過ぎても起きているのは珍しくない。司令官さんも当然知ってはいるけど、それを咎めたという話は聞いたことがなかった。
 ただ秘書艦の仕事は朝が早いから姉さんは消灯時間すぐに横になるので、自然と同室の私も早く眠る習慣がついていた。
 言われるともなく部屋の明かりを消して、少し窮屈なベッドに入り込む。
 いつもなら、このまま眠りに落ちてしまえるのに今日はすぐに寝つけない。
 だから、姉さんが起きてるか分からないけど声に出していた。

鳥海「それにしても司令官さんと木曾さんかぁ」

高雄「気になりますの?」

鳥海「そうじゃないけど鎮守府内での不協和音は望んでいませんもの。二人の間に何か悩みがあるなら、少しぐらいなんとかしたいとは」

高雄「いい心がけですが、くれぐれも早とちりで熱くならないようになさいな。鳥海は熱くなると、すぐ突拍子もないことをするんですから」

鳥海「もう、人をそんな風に言わないでください! 姉さんの……バカ」

高雄「バカで結構。お休みなさい」

鳥海「……お休みなさい。それと……ごめんなさい」

 姉さんが笑ったような気配がして、それだけなのに私は安心して眠れた。

 静かに過ぎた前日と打って変わって、今日は午前中から慌ただしくなった。
 それもこれも領海内で深海棲艦の艦隊が発見され、私にも招集がかけられたために。
 作戦室に入ると、高雄姉さんが部屋の中央にある台に周辺海域の海図を広げ、その上に敵艦隊を示す赤い駒を置いていました。
 奥の方で司令官さんが無線を扱ってる妖精さんと何かやり取りしてるみたい。
 司令官さんは外見にあまり特徴のない方で、強いて言うなら二十代の男性で背はあまり高くないと言ったところでしょうか。
 普段から夏服である白い二種軍衣を身に着けていますが、司令官さんの場合は公の場に出る時以外は冬でも同じ服装のままで通しています。
 なんでも二種軍衣しか支給されてこなかったとか。どこまで本当かは分からないけど、ちょっと脚色が入ってるような気が。
 そういえば姉たちに倣って呼び方を提督に改めた方がいいのかもしれませんが、一度ついた習慣を直すのはなかなか難しいもので。
 司令官さんのほうも呼び方は気にしてないみたいで、曙さん相手にも笑って流す辺りは実は感心してます。
 作戦室には先に何人か来ていたけど駆逐艦の子たちの顔触れが目立つ。
 主力といえる一航戦の二人や金剛さんたち高速戦艦の人たちは見当たらない。

鳥海「あ……」

 何気なく入り口を見ていたら木曾さんが入ってきて、昨日の姉さんとのやり取りを思い出しました。
 決まりが悪くて視線を逸らしてしまう。
 程なくして司令官さんがこちらにやってきます。

提督「くくく……全員揃ったな。伝達にやった妖精から聞いたとは思うが、深海棲艦の一群が近海で発見された」

 司令官さんが海図を叩く。駒の位置はここから東方。今から出撃すれば、どんなに遅くとも一六○○には接触できそうな位置。

提督「今も陸上機が張りついてくれてるお陰で敵艦隊の位置と編成は判明している。へ級軽巡が二隻、ロ級駆逐艦が四隻、いずれも通常の艦種で敵航空戦力は確認できず。迷って出たか偵察行動かは分からないが脅威としては小さい」

 なんで主力の人たちがいないのか分かった。主力を当てるまでもない敵戦力だからだ。
 加賀さんの言葉を借りるなら鎧袖一触。一方的に排除できるはずです。

提督「そこで鳥海を旗艦、二番艦を木曾とし以下暁、響、潮、島風の邀撃艦隊でこれを撃破殲滅する。ただ敵の狙いがはっきりしないので飛鷹を旗艦とし球磨、初霜、初春、子日、若葉の後続艦隊も後詰めを兼ねて哨戒に務めてもらう。何か質問は?」

 ……私が旗艦?
 それなりに出撃はこなしてるし何度かMVPに選ばれたこともあるけど、旗艦に抜擢されたのは初めてだった。
 艦隊指揮。それは胸の踊るような高揚と同時に、後ろ向きになりたくなる重圧も感じた。
 それに駆逐艦たちの組み合わせも気になってしまう。

鳥海「よろしいですか、司令官さん」

 心なしか、自分の声がいつもより硬く聞こえてきた。

提督「なんだ?」

鳥海「邀撃艦隊の編成はこれでよろしいんですか?」

 私の質問の真意を司令官さんはすぐに悟ったらしい。というより初めから予測済みだったのかも。

提督「くくく……これでいいんだ。君と木曾を別にすれば、駆逐隊の者は実戦経験が浅いか今まで対潜哨戒しかしてこなかった。水上艦相手の経験を積むには絶好の機会だろう。誰しも、いつかは初めてを迎えなくてはならないんだ」

 なるほど、と私は納得した。そして司令官さんの言う経験には、言外に旗艦としての私も含まれているのも察した。

提督「他になければ艤装の装着が済み次第、出撃だ」

 司令官さんの一言で場は解散となった。

高雄「鳥海、あなたなら大丈夫ですわ」

 作戦室から出る前に姉さんに声をかけられた。
 頷く私はきっと緊張していたのでしょう。何も言葉にはできませんでした。
 急いでドックに向かい戦闘準備に入る。誰よりも早く準備を終えたのは島風さんだった。

島風「こちら島風、準備完了~! みんなも早く早くー!」

 士気が高いのはいいことだと思います。でも、ちょっと気が逸りすぎてるようなのが気がかりだけど……。
 近海と言っても接敵するまでにはまだ何時間もかかるから、今からはしゃいでても疲れてしまうのではないかと。
 ……いえ、旗艦の私がこういった時ほどしっかりしないと。
 初めての旗艦なんてどうってことないんだから。

木曾「――こちら木曾だ。聞こえるか、鳥海?」

鳥海「っ……はい、感度良好!」

 隊内無線の声に思わず背筋を正してしまう。
 これじゃ私が初陣みたいじゃない……。
 恥ずかしさを感じつつ、横を向くと木曾さんが不敵に笑っていた。

木曾「こうして組むのは初めてだが自己紹介はいらねえな? 今日は旗艦を頼んだぜ、鳥海」

鳥海「そちらも二番艦、よろしくお願いします」

木曾「ああ、任されたぜ」

 高雄姉さんとの話をまた思い出したけど、本当に司令官さんが木曾さんを冷遇しているなら飼い殺しにするんじゃないでしょうか?
 それとも何か謀略の類を巡らせているとか……そんなことはないと思うけど。

鳥海「木曾さん、補給は受けてますよね?」

木曾「当たり前だろ。何言ってんだ?」

 木曾さんが怪訝そうに片目を細める。

鳥海「いえ、それだったらいいんです。出撃前に念のため」

木曾「ふうん。まあ、そういう習慣があるのは立派だと思うぞ。というわけでお前たちは大丈夫か?」

 木曾さんの声に駆逐艦の子たちが反応して、一斉に装備の点検をする。

木曾「鳥海の用心深さを忘れるなよ、お前ら」

 もしかして、私を立ててくれてるのでしょうか?
 それとも駆逐艦の子達を心配して?
 両方、というのが正解の気がします。
 私も旗艦なんだから、それらしく場を締めないと。
 そう思うのに、なんだか言葉が上手く出てきてくれません。いつもはこんなことないのに。

木曾「大丈夫か?」

鳥海「え、ええ」

 木曾さんが個別回線で話しかけてくる。緊張を見透かされてしまってるみたいです。

木曾「あんま気負わずにやりなよ。そんなんじゃ、いつもの力ってやつを発揮できないぜ」

鳥海「そうですよね。でもでも……」

木曾「不安か? だったら提督の判断を信じてやれ。提督が鳥海ならやれるって踏んだから、あんたが旗艦なんだ。難題を吹っかけても、無茶と無謀はさせないやつだからな。たぶんな」

 気遣われてる。その配慮が嬉しくて少し気持ちに余裕が出てきた。

木曾「行けるな?」

鳥海「はい」

 駆逐艦の子達も点検終了の返事を次々と返してきた。
 目を閉じて深呼吸を一度。
 海に出るのは戦いのため。それなら不安も動揺もこの間だけは考えないようにする。
 心がいくらか穏やかになった気がする。時間の流れが遅くなって、世界の音が全て後ろに流れていくような感覚。
 ……そう、別に戦艦と空母で混成された精鋭艦隊に殴り込みをかけるわけじゃないんだから。
 こちらも経験が浅いと言っても駆逐艦の子たちは将来を期待されている子ばかりで、木曾さんもいる。
 それに私だって、砲戦も雷撃戦もそれなりに自信はある。摩耶ほど対空戦闘は得意じゃないけど、航空戦力は確認されてないから気にしなくていい。
 ――戦える。勝ちに、行くんだ。

鳥海「抜錨! さあ、皆さん行きましょう! やるわよー!」

 自らを鼓舞し、私たちは戦いの海へと発進した。

 広大な海洋と比べると私たち艦娘であれ深海棲艦であれ、スケールで言ったら海岸の一粒の砂のようなものです。
 だから位置が分かっていて勇んで出撃したとしても、すぐに会敵できるわけじゃありません。
 仮にすぐ遭遇したとすれば、それはもう敵が間近に迫ってきてしまった時ぐらいで、いきなり窮地に追い込まれてるような状況です。
 ですので、私たちもすぐには接敵はできません。
 現在は巡航速度で指示された海域に向かっていて、会敵予定時刻は十四三○から一六○○。相手も動くのであくまで目安としてです。

島風「鳥海さん、もっとスピードだそうよ。敵に逃げられちゃうよ?」

鳥海「燃料がもったいないからやめてください。それに逃げるつもりがあるなら、こちらに見つかった時点でそうしてますよ」

 島風さんの提案を却下する。
 戦意が高いのか、単に鎮守府で評判のスピード狂っぷりを発揮しつつあるのか、ここまで来ると区別がつかないところです。

木曾「ははは、なかなか苦労しそうだな」

 木曾さんがこんな調子で話しかけてくる。
 さすがに無言のまま行軍というのは、余計な緊張感を生むだけのような気がするので程々のおしゃべりは最初から容認しています。
 ここが勢力圏内というのも大きいです。もっとも深海棲艦は私たちの常識が通用しない相手だから、勢力圏内であっても本当に安心はできませんが。

鳥海「もう少し厳しくしたほうがいいのでしょうか?」

木曾「どうかな。そこんとこは旗艦によってまちまちだし、見張りを疎かにしてなきゃいいんじゃないか?」

 確かにそれはその通りかも。今は艦隊上空を水偵が一機飛び回っていて、もう一機が進路上を先行して進んでいた。
 駆逐艦の子たちも対戦哨戒を続けてきた経験から、何か話していても本当の意味では気を抜いていないのが分かる。
 ……それにしても、ここは海上。木曾さんに司令官さんの話を聞くには絶好の場所かもしれない。

鳥海「そういえば木曾さんは、司令官さんのことをどう思ってます?」

木曾「どうって、また藪から棒に妙なことを訊くんだな」

鳥海「木曾さんは司令官さんをよく知ってるような口振りでしたので」

木曾「あー……そうだな。そう聞こえるよな、やっぱり。本当はそんなに知らないんだけど」

 木曾さんは考えるかのような間を置いてから口を開いた。

木曾「あいつは……俺を傷つけた男だ。たぶん」

鳥海「それってどういう意味です?」

木曾「痛いんだよ。こう、胸の奥って言うのか? この辺がさ、あいつを見てると」

 木曾さんは鳩尾の辺りを抑えてみせる。

木曾「それにはっきりとは言わないが提督は俺を前から知ってるみたいだった。球磨姉さんと多摩姉さんが先に着任してたから俺の話を先に聞いてたって感じではなさそうだし、なんつーかよく分からん。分から
んが、あいつは俺に痛みを与えるんだ」

鳥海「……言ってることがよく分かりません」

木曾「あっはっは、だろうな。俺だって自分で話してて分かってないからな。ただ、なんでだか俺の方も前から知ってるような気になって、あいつの話ができるんだよ。ただの思い込みなのかもな」

 嘘をついてるようには見えなかった。
 ……よく知らない人をあそこまで好意的に話すことなんて、できるのでしょうか?

木曾「けどまあ、提督がよくやってるのは確かだしいいんじゃないか、それで」

 結局、木曾さん自身が司令官さんをどう捉えているのかは分かっていないようですが、口振りからして内心はかなり信頼している、ということなんでしょうか。

木曾「そういうお前はどうなんだよ、鳥海。俺にそんなことを訊くってのはあれか、男として意識してるとかか?」

鳥海「え……あ……ええ!?」

木曾「なんだぁ、図星か? 顔が赤いぞ」

 ケラケラと木曾さんは笑う。
 私のほうはというと、本当に想定してなかった返しだったので言葉が咄嗟に出てこない。
 からかわれてるのは分かるのに……あ、からかわれてるんだから、それをそのまま言えばいいんだ。

鳥海「から――」

潮「私はお似合いだと思います!」

 って、なんで潮さんがここで出てくるの!?
 もしかして筒抜けだった!?
 なんであれ解決策が一瞬でへし折られた。

潮「提督はしっかりした人がお好みって噂ですし……鳥海さんならぴったりだと思います!」

響「潮、なかなか攻めるね」

暁「そういう話なら応援してあげようじゃない、レディーとして!」

鳥海「いや、あの、皆さん……」

響「それなら私も応援しようかな。面白くなりそうだ」

 どうしてこんなことに……計算外です。

鳥海「そ、そういうの分からないですし……!」

 私ったら何を言ってるんだろう……というか否定したほうがいいの?
 でも、それは司令官さんに対してあんまりな気もするし……。
 そんな空気を破ったのは陸上機からの一報だった。

『深海棲艦群、進路八時ノ方向ヘ増速。我、燃料不足ニツキ帰投ス。貴艦隊ノ健闘ヲ願ウ』

 敵艦隊はこちらを目指して進んできている。
 偶然なのか、電探の類でこちらの位置を捉えているのか。その事実に弛緩した空気が吹き飛ばされる。

木曾「なかなか粋な陸上機じゃないか。やっこさん、海上航行の訓練なんて大してやってないだろうに」

響「詳しいんだね、木曾さん」

 確かに響さんの言う通りだ。
 木曾さんって水上機を載せたがらないっていう話なのに、なんでそんなことまで知ってるんだろう……。

木曾「軍艦だった頃は陸上機のカタパルトを積む計画があったからなあ……余計なもんでしかなかったけど、そこで知ったことの全部が全部悪かったわけでもないのさ」

 島風さんの先の提案は却下したけど、敵が動き出したのなら事情が変わってくる。私たちの艦隊も少しずつ速度を上げていく。
 敵艦隊の方が増速してまで向かってきてるなら接触は予想より早くなる。
 自然と先頭を進んでいた島風さんが、程なくして声を上げる。

島風「敵艦見つけたよ! 四時の方向」

 最初に聞いてた通り、へ級軽巡2隻にロ級が四隻。
 ヘ級を先頭にして複縦陣で接近してきている。

島風「……何か言ってるみたい」

 聞き慣れない声がぼそっと聞こえたと思ったら、それはすぐに大音量でこちらの回線に割り込んできた。

ロ級A「ヒャッハー! 新鮮ナ肉ダー!」

ロ級B「タロンシャダー!」

ロ級C「頭ネジ切ッテオモチャニシテヤルゼ!」

ロ級D「イエー! イエー!」

へ級A「本日モ我ガ軍ニ降伏ナシ! 今日ハ絶好ノ戦死日和ダナ!」

へ級B「諸君、我々ハ灰トヒッコリーノバットデ武装シタ古ノ騎士ダ」

ロ級たち「ハア?」

潮「なんなんですか、あれ! 喋ってますよ!?」

響「これが水上の深海棲艦か……潜水艦とはずいぶん違うんだね」

島風「あんなの口だけ……そう、そうに決まってる……」

暁「こ、こここんなので暁が怖がるとでも!」

響「落ち着いて、暁」

暁「お、落ち着いてるじゃない! 響こそ怖がらないでよ!」

響「そうだね」

へ級A「コミュニストハミナ殺シニシロ! 神モ許シテクダサル!」

響「Язык мой-врак мой」

潮「響ちゃん……お、怒ってるの?」

 いけない、慣れない実戦で相手のペースに乗せられてる。
 戦う前からこれじゃ深海棲艦につけ込まれてしまう。
 その時だった。

木曾「あっははは!」

 いきなり木曾さんが大笑いしだした。私のみならずみんなも突然のことに木曾さんを注目する。
 木曾さんは自信に満ちた顔で駆逐艦の子たちを見返した。

木曾「相手をよく見ろ。本当に連中が手強そうに見えるか? 訓練に付き合ってきた仲間たちより上手に思えるか?」

島風「……あんなの、見た目が怖いだけ。みんなよりずっと遅いよ!」

木曾「そうだ。本当に手練れの深海棲艦は余計なことは言わない。だろ、鳥海?」

 いきなり話を振られたけど木曾さんの意図は分かる。
 また木曾さんに立ててもらったような形になるけど乗らせてもらいます。

鳥海「――ええ、木曾さんの言う通りです。あれは怖がらせようとしてるだけの遠吠えに過ぎません。わざわざ相手に合わせてあげる必要なんてありませんよ」

 駆逐艦の子たちから不安の影が少しは消えたように見えた。
 少なくとも落ち着きは取り戻してくれたみたい。
 実を言うと、私も木曾さんも彼女たちには小さな嘘をついていた。
 深海棲艦は限りなく無口か、今みたいに内容が分かるかは別にして饒舌かのどちらかで中間はあまり見かけない。
 そして強力な個体にも饒舌な相手は多い。饒舌かどうかは強さの判断基準にはならないのが実情だった。
 この嘘に遅かれ早かれ気づくでしょうけど、今は少なくともこれでいいはず。

鳥海(ここからは私も自分の役目を果たさないと)

 敵艦隊の動きはまだ鈍い。だったら、こっちも二手に分かれて相手の頭を抑える形で丁字に仕掛ける。

鳥海「島風さん、潮さんは私に続いて左翼側の敵へ砲雷撃戦、木曾さんたちは右翼側の敵へ同様に仕掛けてください。射程外まで脱した後は転進し追撃、魚雷の再装填後に掃討に移ります」

 了解、と応じる声が次々に返ってくる。

鳥海「自分の力と僚艦を信じて戦いましょう!」

 艤装の主機に火が入り唸りを上げ始めた。火器類の安全装置も全て解除する。
 足下が一瞬沈み込んでから、背中を押し出されるようにぐんぐんと加速が始まる。調子は悪くない。
 それでも最高速に達するのは駆逐艦組のほうが早い。
 島風さん、次いで潮さんが前に出る。
 潮さんとの距離はすぐに開かなくなったけど、島風さんはどんどん先に行ってしまう。
 速いとは聞いてたけど、こうも差があると連携を取りづらい。

島風「一番槍、もらっちゃうよ!」

 こっちの気も知らずに、島風さんが先頭のへ級に向かって砲撃を開始し敵艦隊も撃ち返し始める。

鳥海「島風さん、ペースを落として! 突出したら狙い撃ちにされます!」

へ級A「深海製ノ弾丸ダ!」

ロ級A「オラァー! コイヨー!」

ロ級B「死ンダァ!」

潮「鳥海さん!?」

鳥海「まだよ、あなたの主砲では少し遠い!」

 島風さんを狙った砲撃も、彼女の砲撃も互いに大きく逸れた位置に弾着する。
 確かに相手の練度はあまり高くないし島風さんも速くて小回りが利くから、そう簡単には有効弾をもらわないはず。

鳥海「できればへ級を狙いたいけど……」

 今回の戦闘で一番火力が高いのは私なんだから、相手の主力になるへ級の相手を私が務めるのが定石になる。
 でも、島風さんが先行して集中砲火に晒されてる以上、それが適切とは言えないかもしれない。敵艦を減らすのを優先した方がいいのかも。
 島風さんはへ級に狙いを定めていた。それなら……判断まで一秒もいらない。

鳥海「潮さんは島風さんと協力してへ級を狙って。私はロ級を沈めていきます」

 島風さんは小刻みな転進を織り交ぜて、相手に的を絞らせていない。ただ避けるのに――速く進むのに気を取られすぎていて、照準を合わせるための時間がほとんどない。
 そのせいで彼女の連装砲ちゃんがわたわた慌てふためいててかわいい……じゃなくて!

鳥海「島風さん、無駄な動きが多すぎます!」

島風「そんなこと言ったって!」

 とにかく今はこちらも狙わないと。
 二番艦のロ級に照準を合わせ、まずは副砲に当たる連装高角砲で射撃を始める。命中弾は得られなくとも照準のずれは補正できる。
 三度目の補正を元に主砲での斉射に切り替える。
 20.3cm連装砲を四基八門、それぞれ左右の腕に一基を持ち、背中にもやはり一基ずつがせり出す形で正面を睨む。
 軍艦の頃より一基減らしたのはバランスを優先させてのこと。
 火力とバランス、どちらを重視するかは同じ重巡でも好みが分かれている。
 全門斉射し音速を超えた砲弾が放たれる。
 ロ級の周りに砲弾が降り注ぎ、水柱が一斉に沸き立つ。その中に混じって爆発の閃光がいくつか生じた。

鳥海「計算通り!」

ロ級A「ノゾミガタタレター!」

 横倒しになったロ級が海中に沈んでいく。
 すぐに三番艦のロ級に狙いを切り替え、同じ要領で砲撃する。
 ロ級も撃ち返してくるけど精度は低い。今の内に沈めてしまいたい。
 高角砲で射撃してる間にヘ級の予想進路に向けて酸素魚雷を発射する。
 距離がある上に後方から追う形になってしまうから、命中はあまり期待できそうにないですが。
 それでも撃たないよりは撃ったほうがいいはず。撃たなかったら当たる可能性もないんだから。
 見たところヘ級はいくらか被弾していて体から黒煙を噴き上げていた。それでもまだ、せいぜい小破といったところか。
 相手がへ級なら駆逐艦の小口径砲でも致命傷を与えられるけど、そこはどうしても当たり所の善し悪しも絡んでくる。
 潮さんと島風さんはヘ級の射程外へと離れつつあった。
 ひとまず彼女たちには予定通り魚雷の再装填をしてもらって追撃に移ってもらうとして――。

島風「逃がさない!」

 いきなり島風さんが転進する。魚雷の次発装填も終わってないはずなのに。
 昔と違って今は次発装填装置は標準装備だから、再装填はできるはず。

鳥海「島風さん、どういうつもり!」

島風「ごめんなさい! でも、まだ魚雷は撃ってないの!」

 会話を遮るように目の前に水柱が上がり、思いっきり波を被った。
 目が合ったロ級に笑われたような気がした
 もっとも笑っていたとして、笑っていられたのもそこまで。
 こちらの高角砲弾がロ級に命中していく。
 続けざまの被弾でロ級はあっという間に速度を落として的と変わらなくなる。

鳥海「潮さん、島風さんの援護に回って。私もすぐに追うから」

 この状態なら高角砲だけでも沈められるけど、主砲を向け斉射する。

ロ級B「俺、入隊スルンジャナカッター!」

 そんな言葉を残してロ級は爆沈した。
 すぐ転進してへ級の追跡に移る。魚雷の到達時刻はとっくに過ぎていた。
 島風さんに言いたいことはいくらでも思い浮んだけど、とにかくまずは無事に彼女を連れ帰らないと話にもならない。

鳥海「木曾さん、そちらの状況は?」

 通信を入れると、少し遅れて返事がやってきた。

木曾「へ級を撃沈、今はロ級二隻の追撃に入ってる。被害状況は暁が小破、響が至近弾で濡れ鼠だ。そっちは?」

鳥海「ロ級二隻を撃沈、今はへ級の追撃に入ったところですが……」

 島風さんのことを伝えようか迷いましたが。

鳥海「私も濡れ鼠です」

木曾「そっか。髪がべとついて大変だろうが、帰るまでの辛抱だからな」

鳥海「ええ、では後ほど」

 追いついた時に大惨事になっていなければいいんだけど、そうはならないと今は信じるしかない。

 遠目にも撃ち合いをしてるのが見える。
 島風さんがへ級の左前方を行き、潮さんはさらに右後方から挟撃する形で追っている。
 こちらは缶を全力で回してるけど、へ級の速度は最低でも32ノットは出てるようで少しずつしか距離が縮まっていかない。
 連携を取れるのなら別にそれでも構わなかったのだけど……そんなこと今更考えてもどうしようもないのに。
 とにかく左右交互に主砲を発射していく。
 海面を叩くばかりで挟叉も至近弾も得られない。それでも、せめて行き足を鈍らせることぐらいできれば。
 何度も射撃を続けてる内にへ級に閃光が走って、遠目にも分かるほど激しく燃え上がりだした。
 弾着の間隔から見て、島風さんか潮さんの砲撃が当たったに違いなかった。
 それでもなおへ級の足は鈍らない。

鳥海「まだ動く……!」

 あれだけ炎上してるくせに!
 逆に島風さんにも命中の閃光が走り、艤装の欠片が飛ぶのが見えた。
 あれは中破か大破か、ここからでははっきり分からない。

ヘ級A「死ネバ痛ミモナクナルゾ!」

 盛んに燃えてるのに、その声は明瞭だった。
 止められない。嫌な予感が頭を過ぎる。
 巨大な水柱がへ級の艦首と中央部に突然上がった。へ級の何倍もの高さに上がった二つの水柱は大量の怒濤になってへ級の艦体を覆い隠す。
 水柱が収まった時にはへ級の体は三つに分断され、急速に海中に引き込まれ始めていた。
 おそらくは酸素魚雷。たぶん島風さんが大破前に放っていて、それが命中してくれたんだ。

へ級A「ヒメニ伝エテクレ、立派ニ戦ッタト……」

 ヒメ……聞き間違いでなければ姫?
 ヲ級やタ級を指してるのか、それとも別の?
 もっとも本当に意味のある単語かは分からない。
 灰とバットがどうこう言ってるような相手なんだから、逆にかく乱を狙ってる恐れもある。かく乱を考えるのかどうかも定かとは。
 ……今考えないといけないのは、そんなことじゃないでしょうに。

鳥海「潮さん、付近の警戒をお願い。それとよくやってくれましたね」

 彼女は今回の戦闘で目立った活躍はできなかったけど、こちらの指示に従って的確に動いてくれていた。
 潮さんみたいな子となら何かと動きやすいので、私の中で彼女への評価が上がります。

潮「いえ、私なんか……あの、島風さんは大破みたいです」

鳥海「分かりました」

 残る敵はもういないけど、なんだか一気に疲れました。
 でも、ここから帰るまで本当には安心できない。二人に合流する。
 島風さんは俯き気味に進んでいるせいで表情はよく見えない。
 彼女の連装砲ちゃんたちが困った顔をして、私と島風さんを交互に見ていた。
 潮さんの言うように彼女の艤装は大破していて、元々の軽装がさらに薄くなっています。

鳥海「自力航行はできる?」

 大丈夫か、とは訊かない。大丈夫じゃないのは分かっていたから。
 島風さんは答えなかった。

鳥海「島風さん」

 困った子ですね……ちょっと摩耶と重なります。
 無鉄砲をして痛い目に遭って、それから――。

島風「……動けます」

鳥海「分かりました。どのくらいの速度なら出せる?」

島風「は……10ノットなら」

鳥海「木曾さん、そちらの状況を教えてください」

木曾「少し前に戦闘が終わったところだ。被害は変わらず、暁が小破だ」

鳥海「分かりました。今から合流して帰投しましょう。合流後は島風さんと暁さんを中心にした輪形陣を形成。前衛は私、右翼を響さん、左翼は潮さん。木曾さんは殿をお願いします」

 全員分の応じる声が帰ってくる。島風さんも小さい声だったけど返してくれる。

鳥海「艦隊速度8ノット」

島風「あ……もっと! もう少し……出せるよ」

 少しだけ最初の調子を取り戻したけど、すぐに島風さんは消沈してしまったらしい。

鳥海「いいのよ、無理しないで」

 本当は島風さんにも労いの言葉が必要なのかもしれない。
 でも、島風さんの独断専行が頭を過ぎってしまえば、今は嘘でもそれを言ってはいけない気がした。
 どう受け止めるにせよ、彼女のためにはならないとしか思えなくて。
 かといって、この場で追求する気にもなれません。もちろん、このままで済ませていいとは微塵も思っていませんが。
 鎮守府に作戦完了と簡単な報告をしてから、私たちは帰路につきます。
 ――勝ったのに、私は出撃前よりも重くて息苦しい気持ちで鎮守府に帰投しました。

 一方、鎮守府でも帰投を承認するのと並行し、それに合わせた動きを始めていた。

提督「飛鷹の艦隊に連絡。引き続き哨戒に当たり、可能であれば鳥海の艦隊付近に潜水艦が潜んでないかも調べさせてくれ」

 可能であれば――とは言うが、実際はまず拒否できない命令だ。
 提督もその点を分かった上で言ってるわけだが、あくまで飛鷹たちの防空網に穴が開かない範囲でやってくれればいいとも考えている。
 その辺りのさじ加減も飛鷹なら上手いことやるだろうと、やや楽観的に考えながら。

提督「高雄、修理の手配を頼む」

高雄「島風さんに修復材は用意しますか?」

 修復材――現場の人間はバケツという言い方を好むそれを使えば艦娘や艤装の損傷をほぼ瞬間的に癒すことができる。
 以前、提督が明石と夕張の二人に成分を解析させたところ、それがナノマシンによる作用だと教えられていた。
 熱っぽく語った二人を余所に、提督からすれば理屈は分かるが理論の分からない話でしかなかった。
 提督の感性では異質で異様な技術の産物でしかないからだ。
 もっとも後遺症や依存症も確認できないと二人のお墨付きも得られたのと、用兵側の視点で見れば有用性は実証されているので使うのに躊躇いはなかった。
 そんなに便利なら出撃する艦隊に常備できないかも提督は聞いたが、ナノマシンが不安定らしく専用の設備でないと運用できないとのことだった。

提督「バケツはいい。傷をすぐに治したからって心の整理がつくとは限りないだろう。ましてや初めての大破だ」

 性能諸元(カタログスペック)や訓練の成績で言えば島風は駆逐艦の中でもダントツだった。
 しかし実際に戦場に出してみれば、大破しての帰還となる。
 原因はともかく珍しい話ではないな、と提督は内心で独りごちる。

提督「くくく……俺には本当に大変なのはこれからじゃないかと思えるよ。まったく胃に悪い話だ」

 修理と休息が終われば、参加艦娘たちから報告を聞くのが提督の常だった。
 課題の残る戦い方をしていれば、それだけ報告も一筋縄ではいかなくなってくる。

提督「……大きな戦いが始まる前でよかったよ。本当に」

 思わず出てしまった呟きを聞かれなかったかと提督は辺りを窺ったが気づかれた様子はなかった。
 ただ高雄とは再び目が合う。
 まだ他に指示はありますか、と問うような顔に提督は答えた。

提督「間宮に夜食の用意を。飛鷹たちの分は作り置きしてもらうように。あと川内に夜間外出するつもりなら、戻る艦隊を敵と間違えないように伝えてくれ」

 艦隊の帰投予定時刻は二二○○を過ぎていた。

今週の月曜のつもりが、普通に来週の月曜になってしまいそうで困惑してる
というわけで二時間ぐらい推敲やら手直し加えつつ投下していきます

FO3は間違いなく傑作

 私たちの艦隊は帰投すると島風さんと暁さんは艤装の修復のために修理ドックに向かい、私を含め他の者は汗を流すことになります。
 夜間のこの時間は大浴場は使用できないので、必然的に個室のシャワーしか選択肢がありません。
 その後、小休止として間宮さんの用意してくれた夜食を頂き、全員が作戦室に集められたのは日付が変わるまでもう三十分もないという頃でした。
 控えめな灯火に彩られた作戦室では中央の海図台を挟む形で、奥に司令官さんと高雄姉さん。入り口側に私たちという形で、特に申し合わせたわけじゃないけど海戦の時と同じ分かれ方になっていました。
 作戦室には他には夜間当直の妖精さんたちが壁際の通信機や電探網の番をしています。真面目にやっているか居眠りしてるのかは、ここからでは分かりません。

提督「遅くに集まってもらってすまないな。疲れているとは思うが最後までよろしく頼む」

 司令官さんは照明の淡い光を背中から浴びてるせいか顔には影があるようでした。
 姉さんは困ったような笑い方で横の方を見ていて、司令官さんもそちらを横目に一瞥する。
 それとなく視線を追うと原因は暁さんでした。
 この時間と戦闘の疲れもあるのでしょう、暁さんは船を漕いでいました。それもぐらぐら前後に大きく揺れながら。
 隣の響さんがそれとなく無言で暁さんの袖を引っ張りましたが。

暁「んあー?」

 効果はないみたいでした。
 どう見ても隠れてません。
 見かねたのか響さんが暁さんの耳元で囁く。

響「レディーは居眠りしないよ」
暁「れでぃーは……不眠ふきゅー……」

 暁さん流の言い方をすれば、レディーの振るまいとしてどうなのかと思いますが……。
 ちなみに潮さんも半分寝てるようですが、動きが小さいのと暁さんという格好のデコイがいるので目立ってません。
 島風さんも俯き気味だけど眠たいからではなく、さすがに少し暗くなってるようです。
 木曾さんは今回ばかりは我関さず、といった体でしょうか。

提督「鳥海、説明を頼む」

 どうやら暁さんを見逃すことにしたようです。
 それなら私もそうするまで。
 海戦の概略を説明していきます。
 敵艦隊の編成と陣形。様子がどうだったか。
 説明を聞きながら姉さんが海図の上に駒を置いて、時には動かす。
 敵の配置に合わせて、こちらも二手に分かれたことを伝える。
 司令官さんは盤上を見ながら説明を聞いている。普段は説明が終わるまであまり口を挟んだりせず、今回もそれは変わらない。
 けれど島風さんが突出したのを話した時に眉をひそめるのを見た。

提督「二手に分かれたなら、それぞれ別に詳細を説明してもらおうか。そうだな、まずは暁に頼もうか」

暁「ふにゃ?」

 暁さんは呼ばれたことで目を覚ましましたが、事態が飲み込めてないようで目をしばたたかせる。
 どうやら初めから見逃す気はなかったようです。
 司令官さんの真意は分かりませんが、小さく笑っているように見えます。本当に笑っているのならいいのですが。

提督「暁、戦闘の推移と行動の理由を説明してみるんだ」

暁「へ? えと?」

提督「なんだ、それなら響に頼もうか?」

響「ん」

提督「レディーというのはもっと目端が利くと思っていたが、見込み違いだったかな」

暁「ちょーっと待ったぁ! できないなんて言ってないんだから! レディーにお任せよ!」

 ぷんすかと言わんばかりに小さな体で胸を張る。これが居眠りの後でなければ様になってたかもしれないのに。

提督「くくく……よく言った。負けん気が強いのはいいことだ」

暁「ねえ、司令官。目端が利くって何?」

提督「……辞書を届けさせる。レディーの嗜みだ」

暁「さすがは司令官ね! レディーが分かってるわ!」

提督「おほめにあずかりきょうえつしごく。いいから説明してくれ」

 司令官さんの目が泳いでる。
 それに気づいた様子もなく暁さんは説明を始めるけど……結論から言うと暁さんの説明はすごく分かりにくかった。というか状況が分かってないから説明できない、というのが正解。
 響さん、時には木曾さんにも話を振って概要だけは伝え切れた形にはなったけど、暁さんは木曾さんの指示で動いてただけで、どうして指示の通りに動くのかという部分にまで頭が踏み込めてない。

提督「最初にへ級を叩いたのはどうしてだ?」

暁「大きくて生意気そうだったからよ!」

提督「そうか。くくく……まあ主力艦だもんな。そう見えなくもないのかもしれないが、どうも今ここに必要なのは学校と教師みたいだな」

 司令官さんの感想は本音なのか冗談なのかはっきりしませんが、あながち冗談でも言ったわけでもなさそうな。

提督「へ級を叩いたのは最初に火力の充実してる主力艦を潰した方が楽に戦えるからだ。それに相手が旗艦なら指揮系統も乱せるかもしれない」

 司令官さんが噛んで含めるように暁さんに説明し始めますが、立場が入れ替わってるのを分かってるのでしょうか。
 そして司令官さんを見ていて気づいたことが。
 さっきから暁さんと響さんは見ても、木曾さんを見ようとしてない。

提督「小破で済んだのはへ級を早めに沈められたからとは思わないか?」

響「私もそう思うよ」

暁「むぅ~」

 ただの思い込み、と考えようにも意識して目の動きを追っていけば、かえって思い込みじゃないと確認できてしまう。
 自然と姉さんの言葉を思い出す。木曾さんを冷遇している――と。

鳥海(本当にそうかしら?)

 冷遇というよりも、むしろ避けているように見える。
 どうしてそうするかは分かりませんが、根深い何かが潜んでるような、そんな気がします。
 逆に木曾さんはどう感じているのだろう?
 盗み見した横顔からは心境を窺うことはできなかった。
 これが全て私の邪推であればと考えたいのに、そうに決まっていると考えられないのが辛いところでした。

提督「鳥海、次はそちらが説明する番だ」

 物思いにふけっている間に話が進んでいた。

提督「とはいえ、俺が聞きたいのは一つだけだ。島風が突出してるのは、君の作戦か?」

 険を含んだ声。少なくとも私にはそう聞こえました。
 どうしよう。即答できなかった。
 正直に答えるのは簡単で、ありのままを説明すればいいだけです。
 けれど、それは島風さんを堂々と悪者にすることになる。
 もちろん命令違反の非は島風さんにあるし、これを内々で処理しようなんて気はありません。
 でも、私がここでそれを言ってしまったら、島風さんに最後まで付きまとう汚点になってしまうのでは?
 ことによっては挽回の機会すら与えられなくなってしまうかもしれない。
 ……では敢えて泥を被るべき?
 島風さんは間違いを犯している。それと知って庇うのは筋違いにもほどがある。
 答えの定まらないまま、思考が頭の中で渦を巻いているようだった。
 これなら戦闘が終わってすぐに話しておけばよかったんだ。
 私の葛藤は当の島風さん本人の声によって破られた。

島風「だってみんな遅いんだもん」

 それを聞いても、すぐに言葉の意味が掴めなかった。
 島風さんは不服そうに続ける。

島風「もっと速く走れるのに、みんなに合わせてたら敵と同じ速さしか出せないんだよ。そんなの変」

 わざと言ってるのかとも思ったけど、そうじゃないのは彼女を見たら分かる。
 人の気も知らない、あんまりな反応に腹が立ってきた。
 やっぱり、この子は戦闘が終わった時に徹底的に叱っておいたほうがよかったんだ。
 遠慮なんて、いらなかった。

鳥海「なんです、それ。自分一人で戦ってるつもりですか?」

 島風さんが驚いた顔でこっちを見上げる。
 腰が引けるような素振りを一瞬見せたけど、すぐにふて腐れたように口を尖らせる。
 その態度がますます神経を逆なでする。

鳥海「あんな戦い方をしてたら次はもっと危ないの。あなただけでなく他の艦だって危険に晒すような真似なのに」

島風「そんなことない! 今日だって私が敵を引きつけたから鳥海さんも潮も怪我しなかったんだから!」

 その結果が大破。誰がそんな結果を望んだというの?
 大体、誰もあなたに囮なんて求めてない。一人で痛い目に遭って、怖い思いをすることなんてないのに。

鳥海「ふざけないで!」

島風「真面目だよ! 次は当たらないから、そうしたら今日みたいなことには――」

 全部言い終える前に体が動いていた。
 甲高い、水気のある音が部屋中に響いた。
 島風さんが息を呑んで震える手を頬に当てる。

島風「ぶったの……?」

 自分で声に出してみて、初めて何をされたのかに気づいたみたいだった。
 呆然とした顔に赤みが入って、瞳がじわりと濡れる。

鳥海「分からず屋には……何度でもします」

 本心とは違う言葉が出てしまう。
 小さく喉を鳴らして島風さんは俯く。
 震えたと思うと、そのまま逃げるように作戦室から飛び出すのを私は止められなかった。

◇◆◇◆◇◆

 ――険悪な空気になるのが早ければ、事態がこじれるのも早い。
 鳥海に頬をはたかれた島風は呼び止める時間すら与えずに出て行ってしまう。
 余計なことを、と内心で毒づいてはみたが、振り返った鳥海の顔を見てしまえばそんな感情も消える。
 まるで自分の方が叩かれたような顔をされてしまっては。

提督「やり過ぎだ、鳥海」

 立場上、俺は鳥海をもっと責めなくてはならないのかもしれない。
 しかし、あんな顔で見られたらそれもできなくなる。甘い話だとは思うが、萎えた感情は義務だとか責任感という言葉では奮い立たせられない。

提督「解散だ、今日はもう寝ろ」

鳥海「ですが……」

提督「いいから寝ろ」

 さすがに苛立ちを隠せなくなっていた。分かってはいても、どこか横柄になってしまう声を止められない。
 兵学校じゃ指導という名の制裁なんて日常茶飯事だったが、ここに着任してからは遠い世界の出来事のように風化していた。
 禁じていたわけではなく、単に誰もやろうとしてこなかった。影でやっているという様子も見つけられなかった。
 そういった意味で苦い気分でしかない。
 鳥海は先走った。善意から出た類の行動ではあるのだろうが、それでも衝動的と言わざるを得ない。
 実力行使を否定はしないが、他にもやりようはあったはずだ。今回の件は逸脱している。だが煽る形になったのは島風が原因とも分かる。
 作戦室から出ていく面々を見送る。
 その中で木曾が振り返りそうな素振りを見せたので目を伏せ項垂れる。
 白々しいとは思いつつも、それしか今はできなかった。
 ともかく、暁たちや潮の顔から覗いていたのは、敢えて一言で表わすなら不安になるのだろう。
 できる限り早く手を打つ必要がある。こういう動揺は早い内に対処しないと、どんな結果になって返ってくるのか予想もできない。

高雄「……妹がご迷惑をおかけしました、提督」

 最後まで残っていた高雄が頭を深々と下げてくる。
 高雄がこうやって頭を下げるところを初めて見た。と同時に、俺こそ腐ってるわけにもいかないと思い直した。

提督「くくく……誰も彼も我が強いからな。衝突の一つや二つ起きるのは当然だ」

 よし、まだ行ける。億劫でもあるが延長戦をやるしかなさそうだ。

提督「鳥海の気性はなかなか激しいんだな。ああいう激しさを表に出すのは摩耶だけだと思ってたが」

 高雄がきれいなお姉さんなら、愛宕がかわいらしいお姉ちゃん。摩耶が乱暴だが竹を割ったような姉御肌、鳥海が大人しい優等生の妹。
 そんな認識をしているので、素直に驚いた。
 表面的な見方しかしていなかったのかもしれない。
 しかし考えてみれば当然と思える要素もある。鳥海の挙げてる戦果を顧みれば、彼女には果敢と呼べる気質を備えていると思えた。

高雄「あの子はあれで直情径行な面がありまして……あれでも丸くはなってきたんですよ。少し前に姉妹四人でサウナで我慢比べしてたら、摩耶を泣かせたりとかそれはもう大変でしたわ。しっかり話し合ったら分かってくれましたけど」

 なんでそんなことしてるんだよ、と言いたくなる欲求を飲み込む。
 それとどうも今の話は流れが相手の説得でなく沈黙に繋がる気がするが……いやいや、今はどうするかが重要なんだ。

提督「俺は島風を探してくる。高雄も今日はもう休んでくれ」

高雄「お手伝いいたしますわ」

 即答された。頼れる秘書艦殿は初めからそのつもりだったのかもしれない。
 なればこそ他にやってもらいたいことがある。

提督「それなら鳥海の面倒を見てくれ」

高雄「あの子の?」

提督「あれで落ち込んでるのは鳥海のほうじゃないのか」

高雄「提督はそう思われるんですか?」

提督「嫌いな相手にああいう怒り方はできない、と俺は思うがね。まあ、怒り方やタイミングはそう誉められたもんでもないが、そういうのは意外と怒る本人のほうが分かってしまうものだ」

高雄「提督にも覚えが?」

提督「くくく……どうかな。すまないが、そういうわけだから鳥海の方は高雄が見てやってくれないか?」

高雄「分かりました」

提督「島風は俺の方でなんとかしよう。有耶無耶になってるが、鳥海の命令を無視してるのは問題だし彼女が怒ってなければ俺が怒っていた。まあ今回は大事になる前でよかった」

高雄「今回というと……以前もこんなことが?」

提督「いや。だが、一度起きたことが二度も起きない保証なんてなかろうさ」

 高雄にはああ言ってみたが、島風はどこに向かったのやら。
 部屋に戻って不貞寝でもなんでもするか、それとも夜風にでも当たって気持ちを静めるのか。
 先に部屋の様子を見に行ったが、室内では同室の雪風だけが眠っているようだった。
 となると外になるが、一口に外といっても軍港なのでそれなり以上に広い。
 ある程度は居所を絞って考えないと、夜が明けても見つけられない恐れもある。
 夜明けを待つのも考えたが、部屋にいない以上は探したほういい。
 帰ってこない、ということもないとは思うが、あまりいい想像ができないからだ。
 工廠や倉庫にいるとは考えにくいから、桟橋や灯台を見ていくか。
 そんなことを考えて外に出ると、すぐ入り口に木曾がいた。

木曾「探しにいくんだろ? 一人より二人のほうが早いってね」

提督「……気持ちはありがたいが木曾も休め。一人でいい」

 顔も見ずに素通りする。我ながら、あんまりな言い草だ。

木曾「提督。まだ俺の目を見られないのか?」

 足を止めるが振り向けなかった。図星だ。
 やっぱり隠し通せるものでもないのか。

木曾「怖いのか?」

提督「俺は……」

 声が続かない。続ける言葉を持ち合わせていないから。

木曾「悪い、責めるつもりはないんだ。ただ……俺にも上手く言えないんだ。あんたにどうして欲しいのかを」

 小さく笑うのが聞こえる。その響きには嘲りが含まれてるように聞こえる。
 自分の負い目がそう感じさせてるだけだと考える一方で、目も合わせられない現状では確証も持てない。
 それに酷い息苦しさを感じた。

提督「木曾」

 意を決して振り返ると彼女はもう背を向けていた。
 その背中は自分の中にある印象よりも、ずっと華奢に映る。

木曾「言う通りに今日はもう寝るよ。あんたは自分で考えてるより、ずっといい指揮官だよ。だから今のことは忘れてくれ」

 待ってくれ、という声が出てこなければ体も動かない。
 手をつかんで振り向かせて、思いっきり抱きしめ唇を奪いたい。
 そんな衝動があるのに、体がそれに反応してくれなかった。
 離れていく木曾の背中を見送ることしかできなかった。

提督「忘れてくれだと……嘘をつくなよ」

 こっちは散々嘘をついてる身だ。
 つき慣れない嘘なんて簡単に見分けがつく。
 木曾にそんな真似をさせたのはどこのバカ野郎だという話だ。
 しかし、嘘をつかないということは正面から向き合うということでもある。心の準備が未だにできていない。

提督「――不安か?」

 いつか問われ、今また心の内から甦ってきた声を呟いてみる。
 状況は変わっても変わらない答えに情けなくなった。
 しかし、俺自身がそれを許さない。
 木曾がどう言おうと為すべきを為せないのが、いい指揮官とは思えないから。
 自分の弱さが他人を傷つけたのに、どうして俺は今も弱いままなんだ?
 変わることへの恐れ。これを人は罰などと呼ぶのではないだろうか?
 いや、罰が外から与えられる概念だとすれば、内から沸いてくる感情で縛られるのは。

提督「罪か」

 ……だとしたらどうだと言うんだ。
 先延ばしだろうとなんだろうと今は島風の解決が先だ。
 やれると思ったのなら、それに向けて今は動くしかなかった。
 詭弁と分かっていても、俺にはそれしかできない。

 灯火管制を敷いてはいるが、現在の鎮守府は最前線そのものというわけではない。
 そのため夜間でも各所に点在する形で外灯が点いている。
 加えて今日はほとんど満月だったので月明かりもあった。
 島風だから大丈夫だとは思うが艤装を着けて海に出られたら面倒だ。その場合は川内か帰還中の飛鷹たちに見つかるはずだが。
 足は自然と波止場に向く。波止場の先端に一番いい風が吹くと、駆逐艦の誰かが言ったのを覚えているからだ。
 あれは叢雲だったか深雪だったか。確か、そう言ったのは両方で先に言ったのが深雪だった……はず。
 鎮守府を預かるようになってから色々とあったものだと、不意にそんなことを思う。
 今や艦娘たちも100人を越える大所帯になっていた。海域も順調に攻略できれば、年内にトラックかショートランドまで進出するのも視野に入ってきている。
 過去を振り返りそうになる頭を振り、思考を今に引き戻す。
 波止場に着くと銀色の物体が三つ動いてるのが見えた。

提督「島風の連装砲か?」

 何故か自立的に動く島風の三つの主砲が波止場の手前でぐるぐると回っている。
 遠巻きに島風の心配をしてるのだろうか。傍目には不審な動きではあるが、そう解釈する。
 いずれにせよ連装砲たちがいるなら島風もここにいると見て間違いないだろう。
 こっちに気づいて三つの連装砲が見上げてくる。
 口を開いて出てくるのは、なんだかよく分からない声。

「すまないが、お前たちの言葉はさっぱりなんだ」

 真ん中の連装砲の脇の下に両手を入れて持ち上げてみると、思っていたよりもずっと軽い。猫と同じぐらいか?
 ただ金属故の硬さがあるし、ひんやりと冷たい。夏なら夏で気持ちよさそうではあるが、それだと硬さが気になってくる。

提督「……ちょうどいい」

 持ち上げられたままのと、それを見上げる二つの連装砲に頼む。

提督「少しばかり力を貸してくれないか?」

 何か連装砲たちは言うが、やっぱり意味は通じない。しかし肯定なのは彼、あるいは彼女たちの態度で分かった。

 用意を済ませて波止場を進むと波止場の先端に島風が佇んでいた。
 夜の海は黒く深く、波のうねりは未知の生き物の胎動を思わせるような奇妙な怪しさがある。
 全てを呑み込むような底知れなさと、それ故に目を離させない力が潜んでいた。
 足音が消えないように歩き、島風の隣に立つ。

島風「なんだ、提督か……おうっ?」

 島風は視線を戻してから、慌てた様子でまたこちらを見る。いわゆる二度見というやつだ。
 そりゃ驚くはずだ。それが狙いで頭と両肩に連装砲たちを乗せてるんだから。
 一斉に連装砲たちが何か言い出す。言葉は分からないが何を言ってるかは分かる。励ましているんだ。
 島風ははにかむように笑うと、いつもの調子で話しかけてくる。目は少し腫れぼったかったが。

島風「重くないのー、提督?」

提督「暴れないから猫より楽だ」

 さて、話の切り出し方はいくつか考えていたが、掴みとしては悪くなかったようだ。
 俺がここでやるのは飴と鞭で言う飴になる。鳥海が鞭をやってしまった以上、飴をやらざるを得ない。
 結果的になんだろうが、ここの艦娘たちはどうも俺を飴役にしてしまう。
 提督なんてのは鞭をやるべきだと思うのだが――最後の最後に鞭を振るえるのは提督だけだろうから。

提督「いきなり逃げたらだめじゃないか。連装砲たちは心配するし俺もそうだ」

島風「それは……その……」

 島風は俯き気味に目を逸らす。こちらをまともに見られないようだった。
 反省してると見て間違いなさそうなので鳥海の名前も出してみる。

提督「鳥海だってそうだ」

 島風は驚いたように顔を上げて、それでも否定してきた。

島風「そんなはず……」

提督「そんなはずあるさ」

 とりあえず連装砲たちを下ろしていく。
 重さはともかく動きづらい。連装砲はなかなかかわいらしいとは思うが、それとこれは別だ。

提督「鳥海がどう言って怒ってたか覚えてるか?」

島風「……うん」

提督「くくく……なら分かるだろう? 鳥海はずっと仲間の身を心配してたのが。島風、君も当然その中に入ってる。だからこそ島風の言動が許せなかったんだ」

 島風はその場にかがみ込んでしまうと、顔を隠すように頭を垂れる。

提督「心配してなければ、命令を無視して勝手に突っ込んで勝手に大破してました。そう言えばいいだけなのに、鳥海は確かに躊躇ってた」

島風「分かってた……分かってたんだよぉ……」

 ……これは頭でも撫でたほうがいいのだろうか?
 逡巡していると島風が勢いよく顔を上げた。

島風「でもそれなら私ってなんなの? 速いのが取り柄なのにそれも生かせなくて……」

提督「別に速度を抑える必要はない。ヘ級を潮と二人で挟み撃ちにしてたが、本当はヘ級を沈めてからやりたかったんじゃないかな、鳥海は」

島風「……そうなの?」

提督「俺ならそうする。少なくともへ級を叩いて火力を減らしておけば、そこから安全に島風が回り込んで側面なり背後を狙えただろうし、その快速を生かす機会はいくらでもあったんだよ」

 次のは余計な一言か、とも考えたが敢えて言っておく。

提督「がむしゃらに突撃して、わざわざ狙われに行く必要なんてなかったんだ。それはかえって足を殺すだけだ」

島風「っ……!」

 島風は明らかに動揺した。もしかしたら自分でもその可能性に気づいていて、なお認められずにいたのかもしれない。

提督「大破、本当に怖くなかったのか?」

島風「……怖かった。目の前が真っ暗になるし、風も波がぜんぜん分からなくなっちゃって……」

提督「鳥海もそれはよく知ってる。鳥海は……たぶん自分じゃ気づいてないだろうけど、高雄型の中じゃ一番多く敵を沈めてるんだ」

島風「そうだったの? ちょっと意外……」

 鳥海は殊勲艦になることが少なくて目立ってないが、撃沈数は姉妹の中で僅差どころか完全に頭一つ二つ抜けている。出撃回数での差は少ないのに。
 そんな鳥海であるからこそ、ああいう激情的な一面を秘めていても不思議はなかったのだろうし、敵の攻撃に晒される恐ろしさも分かっている。

提督「俺もそう思ってるよ。ただ、それだけ狙われやすいみたいで、被害担当艦みたいになることも多いんだ」

 報告を聞いてる限り突出してるわけじゃないし連携も取れているが、どうも鳥海は敵の砲火に晒されやすいらしい。
 狙いやすいと思われてるのか、狙わないと危険だと判断されてるのか。

「それだけに知ってるんだ、鳥海は何がどう怖いかを」

 向こう見ずで言い訳にしか聞こえなかった島風の言葉に怒ったのは、当然といえば当然だったのかもしれない。
 一息つく。
 これ以上、俺に話せることはない気がする。後はもう二人で解決してもらうしかない。
 それでも背中をもう一押しはできそうな気がした。

提督「やり直すチャンスがあるならふいにするな。そして島風はまだその機会を失ってない」

島風「私、謝りたい……謝らなくちゃ」

提督「素直になるだけでいい」

 どの口がそれを言うんだ。という内心の声を無視する。
 残念だが、人に何かを言う時は往々にして自分を棚上げにしなくてはならない。
 この世に完璧で高潔な人間など存在しない以上は。

島風「ありがとうね、提督」

 島風はいくらか晴れやかな顔になって立ち上がる。

提督「何だ、もう行くのか?」

島風「ちゃんと謝るなら早いほうがいいよ。鳥海さんも苦しいんでしょ?」

提督「……そうだな。えらいぞ、島風」

 未だに進めない俺とは大違いだ。
 俺も変わらなくてはならない、というのに。

島風「お休み、提督。行ってくるねー!」

 走り去っていく。風が吹き抜けるような軽やかさで。

提督「……今から?」

 今の時間は……いや、もう考えまい。これは二人が解決する問題だ。俺も眠いし。
 起きたら、きっと全部解決してると信じて寝よう。

◇◆◇◆◇◆

 部屋に戻りパジャマに着替えれば後は眠るだけ。
 でも、この日はとてもそんな気分にはなれなくて、ベッドに座ったまま時間ばかりが過ぎていた。

鳥海「どうして、あんなことになるんでしょうね……」

高雄「あなたの場合、直情径行なのよ。不測の事態が起こると、頭より先に体で動いてしまう部分があるからではなくて?」

 答える姉さんも私に合わせてか、自分のベッドに座っていた。
 姉さんの言うことはもっともだ。
 戦闘であれなんであれ、起きると考えられることなら計算も立てられる。
 でも、それから外れたことが起きると先に動いてから考えてしまう。
 ……なんて残念な頭。ますます憂鬱な気分になる。

高雄「思っていたより深刻ね。とにかく寝てしまいなさい。疲れた頭で考えることなんて毒になりますわ」

鳥海「うん……」

 頭ではそれがいいと分かってるのに、感情の整理ができてなくて気分がぐちゃぐちゃになってる。
 少し無理してでも眠れば気分はよくなってくれるの?
 それとも塞ぎ込んだ気分で目覚めてしまうのか。
 横になっても眠れない夜を過ごしそうだと予感していると、外から誰かが駆けてくる音がして部屋の前で止まった。
 二呼吸ほど遅れてノックの音が響く。
 こんな時間に、と不躾に思うよりも困惑と興味のほうがずっと強かった。
 鎮守府内である以上は不審者ということはないはずだけど、姉さんは油断なくドアの脇に立つ。

高雄「どなた?」

 誰何にドアの向こうが応じる。

「島風です。あの……遅くにごめんなさい!」

 姉さんと目が合う。どうする、という無言の問いかけに立ち上がっていた。

鳥海「姉さんは休んでて」

高雄「そうもいきませんわ」

 ドアを開けると島風さんが私を見上げていた。

島風「あ……その……今日は……」

 今の私は島風さんにどう見えているのだろう。
 彼女はどんな思いでここまで来たのか。

島風「今日は……ごめん、なさい……」

 震える体で声を絞るように紡ぎだす。
 それは本心からの言葉だと分かって、私の心の中にすっと入り込む。
 自然と島風さんの体を抱きしめていた。
 ありがとうとごめんなさいが綯い交ぜになって、嬉しさと申し訳なさが胸に広がる。

鳥海「私こそごめんなさい……引っぱたいたりなんかして……」

島風「ううっ……こ、こっち、こそ、ごめん、なさい。しんぱいじて、ぐれた……の……」

 堪えていたものの堰が切れたみたい。
 ぼろぼろと涙を流す島風さんを部屋に向かい入れる。
 ベッドに座らせ私も隣に座る。
 震える手を握ると、小さな手が力いっぱい握り返してきて体を預けてきた。
 島風さんの小さな体は、温かくて花のような淡い香りがする。
 不意に分かってしまった。この子は寂しいんだって。
 それが独断をさせたのかは分からないし、そうであっても正当化する理由にはならないのだけど。

 ――島風さんを抱きしめるには十分な理由だった。

◇◆◇◆◇◆

 充血の残る目で朝の業務をこなしていく。目がかゆいというか痛いというか、しみるような感じがする。
 前日の消費資源を確認し収支のバランスを確認する傍ら、秘書艦の高雄から深夜の話を聞き終えたところだった。
 俺とは対照的に高雄の顔色は良好そのものだ。
 睡眠時間はそこまで変わらないはずなのに、この差はどこから来るのか。

提督「それでは鳥海と島風の件は解決したんだな?」

高雄「はい。昨夜は一緒に寝て今朝は一緒にお風呂に入って、今頃は二人で朝食を取っているはずですよ」

 二人で風呂?
 ……見たいというかむしろ混ざりたいというか。最近ご無沙汰だし、ここには毒気が多すぎるんだ。
 大体、高雄からしてあのスリットはなんなんだと。セクハラしてくれって言ってるようなものじゃないか。して欲しいのか?
 いやいや、落ち着け。正気になれ。座っててよかった、本当に。そういうのはなしだ、とりあえず。

高雄「提督?」

 大丈夫だ……俺は正気に戻った。

提督「結果的には丸く収まったか」

高雄「計算されていたのでは?」

提督「勘弁してくれ、どんな策士だそれ。まあ島風と話した時点でこうなるのは期待してたが」

 素の口調が出てるのに気づいて、軽く咳払いをしごまかしも兼ねて肩をほぐすために首を回す。
 いつもの調子で取り繕うんだよ。

提督「くくく……人の心をそう簡単にコントロールできるなら教祖に鞍替えできるな」

高雄「またまたご冗談を」

提督「まあ教祖はともかく行く行くは楽をしたいのは確かだな」

高雄「楽をしたいと言えば次の秘書艦の件ですが」

提督「その件か」

 高雄に相談はしたが、今では持ち回り制は辞めたほうがいいのではないかと考え始めていた。
 もっと余裕を持って交代と持ち回りを行えるはずだったが、昨日の一件以来どうも前途に暗雲が漂っているように感じる。
 それに新海域となる北部や中部に出没する深海棲艦の錬度も、それまでの比ではないとの報告も挙がってきていた。
 所属艦隊の錬度向上を優先させるべきで、秘書艦の件は今やるには余計ではないかと。
 足場を固めるはずが土台を揺らがすような事態になっては元も子もない。
 とはいえ、そんなことを言ってたら現状維持しかできなくなってしまうので、多少は強引にいかないと。

高雄「以前は摩耶を推薦しましたけどあの子を、鳥海を代わりに推したいと思います」

提督「鳥海を? 理由は?」

高雄「可愛い子には旅をさせろと言うではありませんか。私、あの子には期待してるんです。自慢の妹ですから」

提督「気持ちは分かる。昨日の一件を見てると俺も興味はあるし」

 それまでの大人しいという印象を完全に覆されたからな。
 想定してた事務能力に欠けている艦娘とは毛色が違うが、見込みほど余裕のない今となっては高雄の後任としては適切なのかもしれない。

高雄「あの子に秘書艦の仕事を覚えてもらえれば、摩耶の方に教える時も丸投げできますから」

提督「ああ、それは楽ができていい」

高雄「それと私はいずれ妹に甘えて養われる形で暮らしたいんです」

提督「ええ……」

高雄「なんですか、その顔は? ですから提督には熱い内に鉄を打ってもらいたいのですわ」

提督「まあ、そうだな……鳥海なら俺も余裕を持ってやれそうだし承知した」

高雄「ありがとうございます。提督、あなたが決められる人でよかったです」

提督「決められる人?」

高雄「思うんです、提督に必要な資質とは物事を決められるかどうかではないかと。その点、提督は大したものですわ」

提督「……相変わらずの買いかぶりだな。それしかできないから、そうしてるだけで――」

高雄「あなたは素敵な提督ですよ。選択の重さを知ってもなお決めていける人ですから」

◇◆◇◆◇◆

島風「鳥海さん早く! こっちこっちー!」

 元気な声で呼びながら島風さん……島風が空いてるテーブルを抑える。
 前日に出撃があったので、今日の朝は遅いし定期的な出撃任務からも外れていた。
 だから急がなくても席は空いてるんだけど、あれはきっと性分なんでしょう。
 そんなわけで私は島風さん……もとい島風と一緒に遅い朝食を間宮で食べに来ていた。
 間宮は店主の間宮さんの名を取った甘味処だけど、実際は三食も受け持つ鎮守府の台所になる。

伊良湖「なんだか妹さんみたいですね」

 朝の干物定食を受け取る時に、割烹着姿の伊良湖さんから満面の笑みでそう言われた。
 ちなみに今日の干物はタカベの一夜干しとのこと。
 聞き慣れない魚なので、白身魚という以外はタカベがどんな魚か知りません。
 間宮さんと伊良湖さんが作る料理なら外れはありませんけど。

鳥海「妹ですか?」

伊良湖「胸のときめく素敵な響きじゃないですか。わたしも間宮さんとそうなりたいなあ」

鳥海「伊良湖さんも妹やってるから大丈夫ですよ」

伊良湖「鳥海さんったらもー!」

 伊良湖さんとは何かと縁があって、たまに顔を合わせるとついつい色々と話してしまう。
 どちらかというと私が聞き役に回る場合も多いけれど。

伊良湖「でも島風ちゃん、楽しそうですよ。いつもは一人で食べてすぐに帰っちゃうんですけど」

鳥海「そうだったんですか……」

伊良湖「そんなお二人にはサービスしちゃいますね」

 差し出されたのは、お盆に載せられた伊良湖さん特製の最中が二つ。
 そこはかとなく最中とその周囲がキラキラ輝いて見えるのは気のせいでしょうか。

鳥海「いいんですか?」

伊良湖「どうぞ遠慮なく。やっぱり食事は楽しくして頂きたいですから」

鳥海「ありがとうございます、遠慮はしません」

伊良湖「ええ、でも一航戦のお二人には内緒ですよ」

 そう言って冗談めかしのウインクをしてくる。
 かわいらしい人だ。同じ艦娘でもやっぱり違うなあ……。
 伊良湖さんにもう一度お礼を言ってから島風さんの所に向かう。
 彼女が取ったのは窓際の席で島風さんは壁側に座っている。
 人は背中を守ろうとして壁際を選びたがるって聞いたことがあるけど、真偽は分からない。

島風「もー、遅いよー」

 そう言いながらも、島風さんはどこかにこやかに見える。
 ちなみに島風さんは朝カレーを選んでいた。朝に食べるカレーもなかなか乙なものです。

鳥海「でも、こんなお土産も」

島風「もなか!」

 島風さんは嬉しそうに手を合わせる。
 そうか、この子は嬉しい時にはこんな反応もするんだ。

鳥海「こっちは島風さんの分」

島風「むー」

 ところが島風さんは何故か頬を膨らませて不満顔。最中も受け取ろうとしない。
 もしかして最中よりアイスがいい派?
 でも彼女がそんな顔をしたのは別の理由からだった。

島風「だからー! さん付けはやめてよ。鳥海さんの方がお姉さんなのにあべこべだよ」

鳥海「ごめんなさいね、島風さ……島風」

島風「許ーす」

 今度は最中を受け取ってくれる。
 年上だからとは言ってるけど、本当のところは他人行儀に聞こえるのを嫌がってるのではないかと。
 誰かとの身近な繋がりを求めて。できる限りのことはしてあげたい。
 それにしても摩耶以外の人を呼び捨てにするのは、どうにも慣れません。
 島風島風島風島風島風……。

鳥海「島風の髪、きれいですよね」

 よし、今度は自然にちゃんと言えた。
 でも意識している内はまだ不自然なのかも。

島風「そう、かな?」

 島風は自分で亜麻色の髪を一房握って持ち上げてみる。

鳥海「ええ。サラサラしてて触り心地も気持ちよかったですし、なんだかいい匂いもしますし」

島風「えへへー、髪を褒められたのって初めてかも。足の速さしか取り柄がないから」

鳥海「そんなことない」

島風「でも……」

鳥海「そんなことないから」

 島風のことをよく知りもしないのに私は何を言ってしまってるんだろう。
 ……そうか。だからこれから知っていけばいいんだ。

島風「……ありがとう」

鳥海「……いえ。冷めないうちに食べましょう」

 箸をつけ始めてすぐに島風が入り口の方に向かって手を振りだす。
 振り返ると朝食の載ったお盆を持った潮さんがいた。
 彼女ははにかんで会釈をすると、こちらの席まで近づいてくる。
 潮さんはどうしてか歩く時、少し前かがみ気味に見える。不思議だとは思うけど迂闊に聞いていいのやら。
 来たのはいいけど、どうしていいか迷ってる体だったので隣の席に座るよう促す。
 潮さんもカレーだ。もしかして駆逐艦の子たちには朝カレーが人気なのかと、ちょっと疑問に思う。

島風「おっはよー」

潮「お、おはようございます……」

鳥海「おはようございます。昨日は驚かせてごめんなさい」

潮「い、いえ。私はそんな……」

島風「私もごめんなさい。一人で戦ってるみたいな気になってて」

潮「ほんとにそんな……ごめんね、島風ちゃん。私こそもっと速ければよかったのに……」

島風「違うの。潮がいてくれたから昨日の敵も私を倒し損ねたんだよ」

潮「違うの……あの敵が燃えた時、油断しちゃったの。もう大丈夫だって。そしたら島風ちゃんに直撃弾が出ちゃって……」

 潮さんは自分の体を支えるように抱く。
 怯えたような彼女の背中に手を当てる。気休めぐらいにはなってほしかった。
 空気が重い。
 昨日できなかった戦闘の反省会が奇しくもこの場で実現してしまった形だ。

鳥海「元をただせば、あなたたちに上手く指示できなかった私の落ち度ですね……」

島風「そんなこと!」

潮「そうですよ……!」

鳥海「それなら、こうなんじゃないですか? きっと私たちには少しずつ何かが足りなかったんです。だから次はあんなことが起きないようにしないといけない」

 二人の顔を見て思った。
 今の私たちに必要なのは湿っぽい話じゃない。そのために今できるのは。

鳥海「食べましょう、朝ごはん。お腹空きません?」

潮「……空いちゃいました」

島風「……そうだね、もなかもあるし」

潮「もなか?」

 そうだ。伊良湖さんからもらったのは二個しかないから潮さんの分がない。
 不憫というか不公平な気がしたので、私のを半分に割って潮さんの所に置く。
 姉さんたちならきっとこうするでしょうし。
 割った時に皮の香ばしい匂いが立って、本当に美味しいのだと最中が自己主張している。

島風「――む」

 島風さんが自分の最中を二つに割ると私のお盆の上に置く。
 なんで私に渡すの、島風。

潮「あの……」

 潮さんが半分の最中を島風のお盆に移す。
 これでは意味がありませんので最初に割った最中のもう半分を潮さんに渡した。
 と今度はまた島風が私のお盆に半分の最中を置いて、潮さんがまた島風に戻すので私も潮さんに渡して、さらに島風が渡してきて――。

鳥海「……食べ物で遊ぶのはやめましょう」

島風「遊んでないよ。鳥海さんが一個食べればちょうどいいのに」

潮「あの……私が食べなければいいと思うんですけど……」

島風「潮は私と半分こにすればいいの」

 それを言うなら私が年長者だから……とは思うのですが、これでは堂々巡りというものですか。

鳥海「……分かりました。私が一個で二人は半分ですね?」

島風「そういうこと。早く食べようよ」

 いつの間にか湿った空気は消えている。
 ふと気づいた。
 私たちは朝を迎えたんだって。

◇◆◇◆◇◆

 闇の中から声が聞こえる。

 遠くから響く靴音のように、寄せては砕ける波のように、雑踏の中の叫び声のように、強風に混ざる雨がごとく。

 小さく、遠く、雑音に紛れながらも耳に確かに届く声。

――お前に最高の勝利を与えてやる

 自信に満ちた声。俺はこの声を俺は知っている。

――そんな約束、破っちまえ!

 力強い声。俺はこの声も知っている。

 どうしてこんなことを言うんだ。

 どうしてこんなことを言わせたんだ。

 俺はただ――苦しめるつもりなんてなかったんだよ。

 闇が晴れると視界が歪んでいる。

 顔に手を当てると水音がして、その理由も分かった。

「……なんで泣いてるんだ?」

◇◆◇◆◇◆

 高雄姉さんから引き継ぐ形で秘書艦に任命されてから十日が経ちました。

 姉さんから秘書艦が変わるという話は事前に聞いていましたが、後釜に据えられたのは正直に予想外でした。

 仕事の方にはまだ慣れたとは言えませんが要領は少しずつ掴めてきましたし、それまで見えてこなかった鎮守府の一面も見えるようになってきました。

 鎮守府というのは一種の共同体で、ここを運営管理するには多くの資材や人と妖精の動きがあります。

 遠征任務で確保した資材が艦隊のための燃料や弾薬、あるいは修理のための鋼材やボーキサイトになり、食料を確保するために妖精さんは漁船で漁に出ていたり鎮守府の一角に菜園を作っている。

 ただ戦うだけでは見えない、気づきにくいことが鎮守府では常に起きていて、それが日々の営みになっている。

 それに気づいた時は、うまく言葉にできないとても不思議な気分でした。

 でも、こういった気持ちになれただけでも秘書艦になれてよかったと、私はそう思っています。

 今日も私は鎮守府の一部として○六三○には司令官さんの執務室を訪れて、日課となっている報告のまとめをすることで秘書艦としての一日が始まります。

提督「俺と秘書艦の仕事は概ね被ってる。一人じゃ目が届かないほど煩雑になったから秘書艦という仕組みが必要なんだ」

 最初に司令官さんに言われたことです。

 では何が違うかといえば基本的に秘書艦には決定権がありません。もっとも優先度の低かったり定型的な案件はこちらで処理して、事後で承諾を得るという場合もままありますが。

 司令官さんと一緒に働いてみて分かったのは、司令官さんの仕事は何かを決めたり確認して方向性を手直しすることのようです。

 そういった選択が正しいかそうでないかは、すぐに結果が出るとは限りません。

 ですが司令官さんはひたすらに決めていきます。

 それともう一つ分かったのは、普段の口癖というか笑い方はわざとやってるようです。

 もしかして中二病という症例なのでしょうか?

 球磨さんや多摩さんの本能に任せた話し方があの語尾とのことなので、司令官さんのは反対に位置すると言えるのではないかと。

提督「鳥海、昨日の内に届いた資材の量はまとまったか?」

鳥海「ええ、それと消費量もこちらに」

 司令官さんの声に頭が現在へと切り替わる。

 各所からの報告をまとめた書類を司令官さんに渡す。

提督「鳥海は気が回るな、ありがとう」

鳥海「ありがとうございます」

 褒められるのは……なんだか嬉しいです。

提督「資材は……この調子ならもう少し艦隊を動かしても余裕があるな。沖ノ島方面にも敵の動きが見られるし打撃艦隊を三つ編成するとして……」

 司令官さんの大事な仕事に艦隊の編成があります。これは秘書艦には決定権がありません。

 執務室には大きなホワイトボードがあり、私たち艦娘の名前が入ったマグネットも用意されています。

 秘書艦に決定権はありませんが、司令官さんが編成を考えるためのお手伝いはします。

提督「明後日からの艦隊を編成する。第一艦隊旗艦は高雄、二番艦は愛宕」

 ホワイトボードにペンで第一と記入し、その下に姉さんたちの名前のマグネットを張る。

 姉さんが旗艦かあ……そういえば最近はあまり姉さんたちとも摩耶とも出撃してない。そもそも秘書艦になってからは一度も出撃してなかった。

 司令官さんの補佐をする秘書艦が頻繁に出撃してたら、秘書艦の意味がありませんから。

 でも実戦の勘が鈍るのはちょっと困りますね……。

 そんなことを考えながらも、司令官さんの声に反応して呼ばれた艦娘のマグネットを次々に貼り付けていく。

提督「第二艦隊は旗艦を妙高、二番艦は足柄……いや、羽黒にしよう。三番艦は足柄。それから第六駆逐隊も入れて、随伴の戦艦は比叡がいいな。空母は……」

 同じ要領で右に第二と書いてマグネットを張り付けていく。

 名前を見ていけば戦艦、空母、巡洋艦に駆逐艦。高速艦を中心にバランスを考慮しているのが窺える陣容になっています。

提督「第三艦隊は旗艦を古鷹……はオーバーワーク気味になるからだめか。鳥海、一つ君の意見が欲しい。まずは以下の艦娘を第三艦隊とする」

 司令官さんに言われた人たちのマグネットを張っていく。

 霧島さんに利根さん姉妹、蒼龍さんと祥鳳さんに第七駆逐隊。加えて島風と雪風さん。

提督「この中から旗艦を任せるなら誰がいいと思う? あるいは未編入から足してもいい」

鳥海「霧島さんではだめなんですか?」

提督「だめとは違うが霧島は戦艦だからな。あまり旗艦にはしたくない」

 言われてみると司令官さんは今までもあまり戦艦の人たちを旗艦にしてないような。

 でも、その理由が分からない。

鳥海「何か不都合があるんでしょうか?」

提督「くくく……そうさな、説明してなかったか。俺の持論みたいなものだが、鳥海は旗艦を戦艦や空母がやったほうがいいと考えてるのか?」

鳥海「そうですね……艦頃の記憶はあまりないですが、戦艦や空母がいる時はそちらが旗艦を務めていたような覚えが」

 司令官さんは頷く。

 その表情はいつか暁さんに説明をしていたときの様子と重なって見えました。

提督「出撃して遭遇した深海棲艦の中に戦艦や空母がいたら鳥海はどうする?」

鳥海「優先的に狙いますね。戦艦は装甲を抜けるか分かりませんから、できれば同じ戦艦の人に狙って欲しいですが――だからですか?」

提督「ああ。戦艦にせよ空母にせよ攻撃が集中するからな。空母は艦載機の運用に神経を使うし攻撃には打たれ弱い」

鳥海「確かに空母は飛行甲板が破壊されたら、他の部分が正常でも戦力になりませんからね……」

提督「戦艦だって打たれ強いだけで不沈艦ってわけじゃない。それに主力艦と殴りあいもしなきゃならない。そういった艦娘に旗艦を任せるのは負担になるし大破でもされたら指揮系統が麻痺する」

鳥海「そこで巡洋艦の出番ですか?」

提督「その通りだ。特に重巡は足が速いし戦艦に次いで打たれ強い。艤装の拡張性も高いから融通も利くし何より器用な者が多い」

鳥海「では軽巡は? それに駆逐艦の子でもいいのでは?」

提督「軽巡は水雷戦や対潜に特化しがちだから駆逐艦隊の旗艦には向いてるが、他の艦種もいる上で戦況を見るには不向きな者も多くてな。それと駆逐艦もだが軽巡は装甲が薄いから被弾した場合が怖い」

鳥海「なるほど……」

提督「駆逐艦は艤装の拡張性にも余裕が少ないからな。これが俺の理由だ」

司令官さんの話はよく分かりました。

少し前に旗艦に抜擢されたのもこのためでしょうし、司令官さんに期待してもらってると思うと満更でもない気分です。

鳥海「ですが、それなら第三艦隊の旗艦は初めから利根さんか筑摩さんしか選択肢がないのでは?」

提督「そうなんだが、この編成だと利根たちは練度の点で少し見劣りしてる気がしてな」

考えているうちに少し意地悪かもしれない意見を思いついてしまった。

最近の忙しさであまり顧みる余裕はなかったけど、一度思い出してしまうとそれはまた頭に引っかかってしまう。

鳥海「木曾さんを入れましょう、司令官さん。一緒に出撃した時、あの人にすごく助けられたんです」

司令官さんは答えない。それでも真剣に考えているのは確かです。

その顔を見ていて私は別の疑問を抱いた。

提督「旗艦は利根に任せる。それこそ霧島と蒼龍がいるんだから、この面子で問題ない」

鳥海「分かりました。そのように通達を出しますね」

答えながらも先ほどの疑問が未だに残ったままだった。

――私は司令官さんにどんな答えを求めていたんだろう。

午前中の仕事が終わると、日によってまちまちですが午後は時間が作れるになってきます。

そういった時は執務室から離れて、鎮守府内を点検して回ることにしました。

それと秘書艦はいくつかの部屋の管理も代行しているので、それらの部屋の状態も確認していきます。

秘書艦が管理している部屋の一つに記録室があり、ここは各海戦の詳報をまとめた部屋で、記録や資料の持ち出しさえしなければ閲覧自由となっていました。

利用者はあまりいませんが霧島さんや那智さんは二三日に一度は来ています。

それ以外でちょっと意外な所だと、大鯨さんや若葉さん。たまに那智さんの付き添いで羽黒さんも利用してます。

室内は古い図書館といった雰囲気ですが、換気をまめにやってるようで陰気な感じはしません。

記録室の利用申請の大半は伝達妖精を通して行われます。

伝達妖精はその名の通り、鎮守府内での連絡を一手に担った妖精たちを指しています。

各部屋にある黒電話などを通して依頼すると、どこからともなく現れる妖精が素早く伝言を伝えていく。

これが大変便利なので鎮守府内の連絡はこの妖精たちに一任されています。

ちなみに潮さんから聞いた話だと、私が着任する前に駆逐艦の間で伝達妖精たちから、どのぐらい逃げ切れるかを競う遊びが流行ったそうです。

伝達妖精は神出鬼没なのと対象が見つからないと探す人数がどんどん増えるため、格好の遊び相手にされたようで。

ちなみに記録の保持者は何故か天龍さんだそうです。

なんでも二位とは三倍近い差をつけての記録だとか。

偉業を果たしたのも束の間。

天龍「このあと龍田に滅茶苦茶怒られた」

後に天龍さんはそう語ったとか。

閑話休題。

木曾さんが記録室を使いたいと私の所に直接やってきました。

もちろん断る理由はないので承諾しますが、その時に一緒に探し物をして欲しいと頼まれました。

鳥海「一体何を探すんです?」

木曾「俺の過去だ。といっても、あるかどうかは分からねえけどな」

冗談のような口振りなのに、何故か冗談には聞こえてきませんでした。

◇◆◇◆◇◆

息が詰まって慌てて目を開けた。

荒い呼吸を繰り返して、喉の痛みで口の中が乾いているのに気がついた。

見えるのは俺の執務室。頑丈な黒塗りの執務机に黒電話、万年筆、決済済みの書類が山になっている。

手足が痺れている。血の流れが止まっていた時のように。

……いかん、どうやら居眠りしていたらしい。

腕時計を見ると時間が二十分ほど飛んでいた。

鳥海は……いない。そうだ、午後は暇になったから外に出したんだ。

お陰でこんな醜態を見られずに済んだわけか。

最近は眠りが浅い気がする。寝ても寝ても疲れが取れた気がしない。

ストレスが原因だろうか。体のいい言い訳にも聞こえるが、原因は大なり小なり思い浮んでくる。

提督「くくく……」

自然と作り笑いが出てきてしまう。おかしな話だ。

苦労だとか困難だとかは大嫌いなはずなのに、いつからこんなのを抱えたままにするのが当たり前になってしまったんだ?

だが、いつかは解決しなきゃならない。そんな物を抱えたまま生きるのは……拷問だ。

そのためにはもう踏み出さないといけない。時間をかけすぎたし、俺だけの問題じゃない。

島風だって勇気を出して鳥海に謝った。なのに大の大人がいつまで引きずってるんだと、要はそんな情けない笑い話。

そして俺はいつまでもそうありたくはない。間違いだらけの生き方でも、是非だけははっきりさせたかった。

躊躇ったら足が止まる。迷えば判断を先送りにする。そうしないためにも寝起きの体を引きずるように立ち上がる。

部屋を出る前に鳥海に書き置きを残しておくのを思いついた。

定時になったら上がっていい旨、緊急の要件以外は呼び出さないで欲しいこと、それから……行き先も。

書き方を考えて、少し悩んでから『球磨型の部屋』と書いた。

鳥海は勘づいてる。だからこれで察してくれるだろう。

……気負いすぎだな、俺は。いざ話してみれば、あっさり解決してくれるかもしれないのに。

今度は作り笑いも出てこなかった。

それもそうだ。そんな簡単にうまく行くなんて、まったく信じてないんだから。

◇◆◇◆◇◆

木曾「ここが記録室か。入るのは初めてだ」

鳥海「そうだったんですか?」

木曾「今まではどうしても足が向かなかったからな」

そういう木曾さんは左手で胸元を押さえていた。様子がおかしい。

鳥海「大丈夫ですか?」

木曾「前に戦った時に言ったろ。ここが痛むってな。だが痛むのは核心に近づいてるってことだ」

木曾さんは一番古い日付の記録を手に取る。

木曾「球磨姉も多摩姉もこの件に関してはっきり言ってくれねえ。時が来れば分かるの一点張りだ。けどよ、だったら今がその時だ」

鳥海「……どうして私に手伝いを?」

木曾「あんなことがあっても島風と仲良くなったんだろ? それに一緒に戦ってみて気に入ったのもある。信用しても大丈夫なやつなんだってな」

そういうのは褒め殺しというのではないでしょうか?

木曾「……ほんと言うと、すまないとは思ってる。俺の勝手に付き合わせちまってるんだから」

鳥海「いえ。ここまで来たら私も乗りかかった船ですから」

木曾「そう言ってもらえると助かる。俺は最初の方から探すから、鳥海は新しい方から遡ってくれないか?」

鳥海「分かりました。ちなみに木曾さん、着任したのはいつ頃なんですか?」

木曾「カムラン半島で深海棲艦を迎撃してた頃だな。主力艦隊がなかなか捕捉できなくて苦労してたっけ」

鳥海「分かりました。それ以前から遡ったほうがよさそうですね」

記録は日付ごとに分かれていて、各海域や海戦名などが黒表紙に記載されている。

まずはカムラン半島での記録から読んでいく。カ号迎撃戦と作戦名は記載されている。

海戦に参加した艦娘、敵の編成、消費燃料や砲弾数など様々な情報が細かく、また戦況の移り変わりも克明に残されている。

もっと早くに気づけばよかった。ここにあるのは記録という情報で、情報は武器になる。

でも今は目的の記録を見つけ出さないと。

カムラン半島の記録には数次に渡る迎撃戦の合間に木曾さんが着任したことは確かに記されていた。

それと司令官さんは戦闘が優位に進んでいても、誰かが大破すると速やかに撤退を命じている。

私の中のイメージ通りの司令官さんらしい判断をしています。

一つ前の記録に遡ろうとして、次の記録の厚みに驚かされた。

カ号作戦の記録が小説ほどの厚さなら、次は電話帳ほどもある。

南一号作戦、それがこの記録に記されている作戦名だった。

この記録には最初に参加艦娘の一覧が残されていた。艦隊の編成別、さらにそれが艦種別に細分化されている。

そして目当ての記録はこれのようです。というのも作戦の参加艦娘の中に木曾さんの名前があったから。

カ号作戦の最中に着任したという記録とは矛盾している。

鳥海「木曾さん、見つけましたよ。これじゃないかと思います」

木曾「どれどれ……分厚いな。ちょっと貸してくれ」

木曾さんは記録を受け取ると、机に置いて読み始める。

何を探すべきか分かっているのか、木曾さんは一気にページを読み飛ばしながら何かを探していく。

何度か止まりながらも、それでも進んでいく。やがて。

木曾「はは、なんだそりゃ」

乾いた声で木曾さんが笑う。声の調子に背筋に嫌な寒さを感じました。

鳥海「木曾さん……?」

木曾「読んでみるかい?」

是非もありません。

◇◆◇◆◇◆

気楽にノックというわけにはいかなかった。

木曾たちの部屋の前で長い間待った。自分でそう思うだけで、本当は一分も待たなかったかもしれないが。

こういう時の時間の感じ方は不安定だ。楽しい時間とは言い難いから長く感じるんだろう。

提督「よし」

ぐだぐだ考えるのは終わりだ。

部屋のドアをノックする。

多摩「はいにゃー」

返ってきたのは多摩の声だった。

すぐに多摩がドアから顔を覗かせる。

提督「俺だ」

多摩「なんだ、提督かにゃ」

提督「木曾はいないのか?」

多摩「どっか行ったにゃー。その内、戻ってくると思うけど何用にゃ?」

提督「話そうと思って……決心した」

多摩「うれしいにゃ。ささ、中で待つがよいにゃ」

提督「出直そうか?」

多摩「大丈夫にゃ、問題ないにゃ」

多摩に手を引かれて、半ば強引に入れられる。

部屋の中央には大きめのちゃぶ台が一つに、壁際には机が三つ。机の内二つは小学生が使うような学習机だ。

窓にはピンクのカーテンが掛かっている。

女の部屋、ではなく女の子の部屋だ。

多摩「お茶を用意するにゃ。多摩は猫舌だから飲まないにゃ」

提督「いいよ、そんな気遣わないで」

口調が素に戻ってるが気にしない。この辺の事情というか背景みたいなものは古参の艦娘は大体知ってる。

殊、球磨と多摩の二人は無関係とも言い切れない。

多摩「提督は将官にゃ。多摩たちはフリーダムに振る舞ってるけど、礼節をなくしていいとは思わないにゃ」

提督「多摩がまともなこと言ってる……」

多摩「多摩は常識人にゃ」

提督「明日は雨かな」

多摩「血の雨が今降るかもしれないにゃ」

顔を見合わせてから二人で笑った。

出てきた茶は少し薄かったけど温かい。

いくらか緊張がほぐれてくるのを感じながら多摩と雑談を続けた。

◇◆◇◆◇◆

南一号作戦。

当時は本土近海まで侵攻していた深海棲艦を追い払い南方への輸送路も確保できるようなり、ようやく深海棲艦に対する反撃の糸口を掴もうとしていた頃でした。

深海棲艦の大艦隊が再び制海権を奪おうと本土目指して進軍を始めたのが確認されました。

敵艦隊の侵攻ルートから迎撃地点は南西諸島近海と設定され、迎撃のために鎮守府の全艦娘が総動員されました。

沖ノ島攻略時も総動員されていますが、南一号作戦の際は鎮守府の守りも捨てて全員が戦域に投入されています。

背水の陣、乾坤一擲。そんな表現が当てられそうな状況。

そうでもしなければ勝てない戦いだと司令官さんは考えたのでしょう。

実際にこの当時の鎮守府には重巡さえまだ誰も着任していない。正規空母や戦艦なんて言うに及ばず。

軽空母1、軽巡8、駆逐艦37……総数46隻が当時の鎮守府の全戦力。

対する深海棲艦はヌ級6隻にeliteと呼称される赤い光を纏った精鋭艦を複数含む50隻を越える大艦隊。

被害状況が簡潔に記されたページがある。片手で数えられる数しかいない幸運な艦娘を除けば、全員が大なり小なりの被害を負っている。

そして一番下に無機質な一文があった。

・戦没艦 木曾 / 敵主力艦隊と交戦中、撃沈される

鳥海「なんなの、これは……」

急いで先を読み進める。次のページからは南一号作戦の詳細が時系列に沿って記載されている。

唯一の軽空母だった祥鳳さんは制空権を少しでも確保するために偵察用の三機の九七艦攻を除き全て艦戦を搭載。

南西諸島の一部の島には急造の浮きドックにバケツ、弾薬を配置し臨時の補給所としている。

そういった工夫をしてもなお戦況は優勢とは言えなかった。

深海棲艦も三度の攻勢を経て祥鳳さんが戦闘機しか積んでないのを見破って、彼女めがけて水上艦隊の一群が突撃をかけてきて護衛の駆逐艦隊との砲雷撃戦が生起。

祥鳳さんを守り抜くも護衛についていた駆逐艦隊も戦列から離れざるを得なくなる。

痛み分けの状況が続く中、ついに軽巡を中心としたこちらの主力艦隊がヌ級を全て撃沈し、敵主力艦隊との交戦に入る。

――そして問題はここ。

こちらの主力艦隊は球磨さんが旗艦を務め、以下は多摩さん、木曾さん、天龍さん、龍田さん、叢雲さんとなっている。

残存していたヌ級を沈めるまでの間に木曾さんが大破してしまうも他の人たちはほとんど無傷。

ここで艦隊からは司令官さんに一時退避の打診が出ている。

でも司令官さんはそれを却下し進軍命令。敵の主力とぶつかり――木曾さんが沈んだ。

……なんだろう、この違和感は。

鳥海「司令官さんらしくない……」

むしろ逆に撤退を選びそうな気がする。違和感の正体はきっとこれ。

記録を読みながら戦況を頭に思い浮かべていく。

重要な作戦で、もう一押しで大勢を決せられる。そして突入艦隊は木曾さん以外の損傷は軽微。

もし私がこの時の木曾さんの立場なら、ここで引き下がるのは……悔しい。

不可解な作戦や理不尽な命令、大本営の都合だけであれば私たちでも反発したくなる。過去の私たちはそういったことに振り回されすぎて、あまりに多くを無為に失った。

でも、これはその反対。作戦の目的も必要性もはっきりしている。

鳥海「私なら……」

ぞくりと私の本質がうずく。内から沸き上がる高揚感が自然と体を震わせた。

私たちの本質は――戦闘艦だ。敵を倒すために生まれ、戦うのがそもそも存在理由と言えた。

もちろん今の私たちはそこから外れている。

ただの兵器でしかなかったものが、こうして記憶を持って、考えて、感じることができる。

私たちは生を望むし死に場所を求めている訳じゃない。

それでも私たちは、艦娘だ。戦いに身を置いてこその私たちなんだ。

そう、これは命を懸ける意味のある戦い。

鳥海「でも……それはあくまで大破したのが鳥海だから」

もっと冷静に判断を下そうという部分が考える。前提が違うんだ。

仮に木曾さんが私ではなく姉さんたちや摩耶だったら? 姉妹たちでなくても、島風や潮さんみたいな他の艦娘だったら?

重要な戦いなのは分かってる。

それに海に出て深海棲艦と戦えば、何がきっかけで沈むかなんて本当は誰にも分からない。

でも大破進軍はもっと明確に……戦えではなく、的になって沈めと命じられてるのと同意義になってしまう。

鳥海「言えるはずないじゃない……」

私にはできない。どんなに価値のある勝利だと言われても、確実に沈むと分かって自分以外の誰かの命を代償にするのは。

得るものと失うもの。その価値はきっと等価値なんかじゃないから。

今では感じていた高揚は収まって、逆に同じぐらいの不安に駆られていた。

事実だけを見るなら、司令官さんは勝利のために木曾さんを犠牲にした。

でも、ここに記されている事実が、私の知る司令官さんと――現実と噛み合ってくれない。

おかしいって分かってるのに、何がおかしいのかに辿り着けなかった。

鳥海「木曾さんはどう思います?」

返事がない。

そこでやっと私は気づいた。

木曾さんは私が資料に夢中になってる間に資料室から出てしまったんだと。

胸騒ぎがして、すぐに部屋を後にする。南一号作戦の記録を持ったままだけど、戻しに行く気はなかった。

提督の執務室に行かないと。今の木曾さんが向かいそうな場所がそこしか思い浮かばなかった。

走る。遅れたら、それだけ取り返しのつかないことになりそうで。

廊下の角から出てきた人影に気づいた時には止まれなかった。

鳥海「ひゃあ!?」

「な、なんだクマ!?」

ぶつかった拍子に絡みつくみたいな形で押し倒してしまう。

鳥海「あいたた……ごめんなさい、急いでて……」

球磨「ど、どうしたクマ~……そんなに慌てて」

ぶつかったのは幸か不幸か木曾さんの姉の球磨さんだった。

南一号作戦の際の旗艦を務めていたのも球磨さんだった。

ためらいはなかった。

鳥海「助けてください!」

球磨「一体どうしたクマ?」

鳥海「木曾さんが……たぶん司令官さんの所に」

球磨「木曾が? でも、それがどうして助けるになるクマ?」

鳥海「それが……二人で過去の戦闘の記録を調べてる内に見つけたんです。南一号作戦の記録に……」

南一号作戦、と聞いた途端に球磨さんの顔色が青くなって表情も緊張した。やっぱり知ってるんだ。

鳥海「その……木曾さんが沈」

球磨「もういいクマ!」

なんて迂闊。不用意に球磨さんを刺激するような言い方になってしまった。

鳥海「ごめんなさい……その、その時に司令官さんが大破進軍を命じたって記録されてて……」

球磨「ちょっと待つクマ。それは変……それが記録ならちょっと見せるクマ!」

ほとんど引っ手繰るように球磨さんは記録を取る。

鳥海「ここです。ここに」

球磨さんは食い入るように記録を見つめていた。

指に力が入りすぎて記録を持つ手が小刻みに震えている。今にも記録を破いてしまうんじゃないかと心配になった。

球磨「違う……なんで変わってるクマ?」

呆然と呟く。球磨さんは動揺していた。

鳥海「変わってるって、どういうことです?」

球磨「あの時、提督は……」

言いかけて球磨さんはすぐに立ち上がった。

球磨「後でちゃんと話すから今は木曾を探すクマ! いや、提督を見つけるのが先クマ!」

鳥海「行きましょう!」

球磨さんと司令官さんの執務室まで走り出す。

助けて、と言ったのは私だけどこれって……木曾さんが早まったことをしかねないということなんでしょうか。

尋ねてしまったら本当にそうなってしまいそうで、これ以上はとても聞けませんでした。

◇◆◇◆◇◆

裏切られた。

自分の中にこんなに黒い感情が潜んでいたなんて信じられない。

なんのことはない。

功を焦って大破進軍した結果、俺が沈んだ。先代の木曾が。

いや、先代という呼び方は正しいのだろうか?

俺は、艦娘は一人だけだ。それがどうして一度沈んだ木曾がいて、今の俺までいるのかが分からない。

分からないが一つだけはっきりしている。

この痛み――あいつを見た時から続く痛みは他ならないあいつのせいだった。

痛みをどこかで受け入れていた自分が許せない。

あいつを信じきっていた間抜けな俺が腹立たしい。

ますます強くなる痛みが憎々しい。

痛い。痛くてたまらない。

この痛みはまるで俺を縛りつけようとしているみたいだ。

あいつとの出会いには、いつも痛みが伴っていた。

自分だけの特別な痛み――そう思っていたバカなやつ。それが俺だ。

この痛みは警告だったのかもしれない。

あいつに沈められた事実を忘れるなと、俺の記憶がずっと疼いていたのか。

だとしたら、まったくお笑いだ。信用は裏返ってしまえば憎しみらしい。

「落とし前をつけないとな」

執務室の前に着く。

黒っぽい木造の、どこか古めかしく見える観音開きのドアを前にすると、少し気持ちが萎えた。

衝動がいくらか収まって戸惑った。あんなに強い感情が、こんなすぐに消えるのか?

ドアだ。そうだ、ノックをしないと。それとも不要か?

ノック代わりに蹴り飛ばしたっていい。

きっと蝶番から外れれば、今の俺みたいに飛んで跳ねて暴れまわってから倒れるに違いない。

魅力的な思い付きだと思ったのに、実行する気にはなれなかった。

このままここで待ってれば、俺を突き動かしていた黒い衝動は消えてしまいそうだ。

だから動け。とにかく動くんだ。何もできなくなってしまう前に。

深呼吸してドアを一気に開けた。ノックも挨拶もなし。とにかく中に入った。

執務室は明かりこそついているが、あいつは、提督はいなかった。

それに安心した。信じられない話だが、本当に安心してしまった。

木曾「……それもそうか」

本当は分かっていたくせに。

提督だけが俺を避けていたんじゃない。俺だって提督を避けていたんだ。

なあ、提督。あんたは俺にとってのどういう男なんだ?

この痛みが答えなのか?

痛みの理由が分かれば変わるのか?

一つだけはっきりしてるのは、俺もあいつも今日こそ目を合わせなきゃならないってことだ。

行き先を示すような物がないか部屋の中を調べると、机の上に鳥海への書き置きが残っていた。

――ったく、どうしてこんなに痛いんだ?

◇◆◇◆◇◆

多摩「不安にゃ?」

提督「木曾の物真似?」

多摩「どうにゃ?」

提督「似てない」

多摩「提督はキソーのことになると真面目だにゃー」

提督「木曾に限らず、普段からそのつもりだが?」

多摩「じゃあ熱の入り方が違うにゃ」

否定は……あまりできない。口にこそ出さないが。

多摩「一人で背負うことなんてないにゃ。キソーは妹なんだから。提督に甘えてきた多摩たちが言えたことじゃないかもしれにゃくても」

提督「甘えてるのは俺の方だよ。自分が一番傷ついてる、そんな風に思ってたんだから。傷を負ったのは俺だけじゃないのに」

多摩「提督」

提督「湿っぽい話をしに来たわけじゃないのに、まったくさ」

多摩「ありがとうにゃ」

提督「こちらこそ」

ここで無言になって、余韻のような時間に浸る。

しばらくして多摩が気軽な調子で言ってくる。

多摩「木曾が戻ってきたら多摩は散歩に行ってくるにゃあ」

提督「ああ。でも木曾が怖がってたらできれば残ってて欲しい」

多摩「それはいいけど、怖がるかにゃ?」

提督「背中が小さかった。大体、俺のせいかもしれないが抱えてるものがあるんだろう」

多摩「……ちょっと悔しいにゃ」

提督「ん?」

多摩「よく見てるにゃ」

見てるだけじゃ意味はないんだ。

それは何もしないのと、きっと変わらないから。

提督「……ん?」

ドアノブが一瞬回ったように見えた。しかし誰かが入ってくる様子はない。

多摩に気づいた様子はないし気のせいか。思ったより疲れてるのかもしれない。

多摩「でも、どうして木曾と話す気になったにゃ?」

提督「気になるのか?」

多摩「そうにゃ。やっぱりお姉さんとしては聞いておきたいにゃ」

提督「……有り体に言えば自分のためだろうな」

誰かのための行動も、巡り巡れば自分のためにもなる。

目を背けていても状態が良い方に変わってくれるわけじゃない。がむしゃらに動くのが正しいとも思えないにしても。

提督「いくら虚勢を張って自分で決めた人物を演じようと、奥底にある不安は消せないんだよ。それを解消したいんだ」

多摩「どんな鎧を纏っても心の弱さまでは守れないにゃ?」

提督「その通りだが、多摩らしくない言い回しに聞こえるな」

多摩「夕張がそんなこと言ってたにゃ。でも、きっと何かの受け売りにゃ」

提督「そういうものか……でも的は射てると思うぞ」

多摩「提督。もう一つ聞かせて欲しいにゃ」

提督「なんだ、改まって」

多摩がちょこんと正座をする。なんだか大変な質問がやってきそうだ。

多摩「この先、またあの時みたいな状況が来たら、今の提督はどんな判断を下すのにゃ?」

嫌なことを聞いてくる。しかし答えが簡単に出てきてしまう自分というやつの方が嫌なのかもしれない。

いつもの調子に戻す。弱さを守れなくても、人には仮面が必要だ。

提督「くくく……大破してようが動けるなら関係ない。行って戦え」

嘘じゃない。そして今では分かっていた。艦娘というのは本質的に戦士であるのが。

その決断が必要になったら、その時は本心を絶対に見せてはならないのだろう。

だから、いつもの自分になるよう努める。

提督「敵を倒せるなら誰が沈もうと俺の知ったことじゃない。お前だって例外にはならんぞ、多摩」

ドアが開いた――瞬きの間に黒い影が目の前に迫っていた。

影の正体が木曾だと気づくのと意識が一瞬飛んだのはほぼ同時。

 ――天井が見えた。

なんで天井が見えたのか飲み込めないまま顔が正面に引っ張られる。

木曾に襟元を掴まれていた。

そして目が合う。

恐れ、しかし本当は望んだはずの結果。

彼女の目に浮かぶ色を見て、俺は悟った。

これは罰だ。手を伸ばせずに先延ばしにしてきたツケ。

過去を引きずり続けて、目の前にある今を蔑ろにし続けてきた俺への帳尻合わせ。

過去が今に追いついてきた。いや、今や過去は今を追い抜こうとしている。

木曾「やっと目を合わせたな」

そこから先の俺の動きは反射だった。左腕が動いて顔の前に来る。これが功を奏した。というのは命拾いをできたからだ。

木曾の拳が左腕を打つ。

提督「ああああっ!」

激痛が電流のように走り、腕から力が抜けて垂れ下がる。

多摩「やめるにゃ!」

木曾「離してくれ、多摩姉!」

木曾の後ろから多摩が掴みかかって、掴まれていた襟が離される。

しかし立っていられずに、その場に倒れ込む。

視界が不安定に揺れている。遅れてやってきた痺れるような痛みが顔を犯し、力の入らない左腕はそのくせ燃えるような痛みを主張し始める。

あまりの痛みに脂汗が流れ、うめき声を抑えられない。そのうめき声のせいでますます歯が痛くなる悪循環。

抑えた口元からは血が溢れてくる。こらえようとしたら、鉄の味があまりに気持ち悪くて口に溜まったものを吐き出してしまう。

血溜まりの中に白い物が混ざっていた。歯だ。それを見て、また口の中の血を吐いた。

木曾「あんたが! 俺を殺してたんだな、提督」

焦点が定まらない。痛みのせいで熱に浮かされてるような感覚だった。

宙をかいた右手が壁か棚か机かよく分からない物を掴む。それを支えに立ち上がろうとするが、完全に膝が笑っていてすぐに膝をつく。

顔を上げても肝心の木曾の顔が、よく見えない。

「それで次は多摩姉にでも沈んでもらうつもりか?」

くそっ、息が荒い。頭が割れそうだ。口の中にネジを差し込まれてるみたいだ。

「その前に俺が止めてやるよ! 俺の敵も討つ!」

「いい加減に、するにゃあ!」

後ろから多摩が木曾の右裏膝を踏み抜くがごとく蹴りつけ、文字通りに破壊する。

木曾「がっ――!?」

右足から崩れた木曾の左足を払い、床に押し付ける。と、同時に両腕を背中側に捻りあげて拘束する。

木曾「膝が……! なんでこんなことを!?」

多摩「後でバケツ使ってやるにゃ!」

木曾「そういう問題じゃないだろ……ああっ!? 離せ! 痛い、痛いんだよ!」

多摩「当たり前にゃ! 痛くなるように関節を極めてるにゃ!」

二人の声がひどく遠くに聞こえて、痛みも鈍くなり始めていた。

多摩「なんで、なんで忘れた! どうして覚えてないにゃ!」

木曾「多摩姉……泣いてるのか?」

多摩「泣きたくもなるにゃ!」

木曾「どうして……なんで提督のために、そこまでする!?」

多摩「お前がそれを言うのかにゃー!」

提督「やめろ、多摩……姉が妹をなどと……」

はっきり声に出したつもりだったが呂律が回っていない。

そして体も意識も限界を迎えていた。

◇◆◇◆◇◆

それはどう呼べばいいのか――混沌とか修羅場という言葉が思い浮かんできた。あるいは鉄火場とも。

司令官さんは血溜まりの上に突っ伏していて、木曾さんは多摩さんに関節技で拘束されてるし、その多摩さんは泣いてる。

一緒に部屋に入ってきた球磨さんはこの状況にすっかり固まっている。

とにかく――とにかく司令官さんを助けないと。

急いで駆け寄って脈を確認する。

――生きてる。でも意識がないし、呼吸も小さい。

鳥海「球磨さん、お二人をお願いします。司令官さんは私が」

部屋にあった電話を借りて伝達妖精まで繋ぐ。

鳥海「秘書艦の鳥海です。大至急、軍医を呼んで……いえ、こちらから行くから診察と手術の準備をさせて。司令官さんが重傷、おそらくは打撲によるもの」

そこまで言って深呼吸する。取り乱してはだめ。

鳥海「それと球磨さんの部屋を清掃と……修理ドックを一つ空けてバケツも用意。許可? 責任なら後で取りますから、どれも大至急!」

電話を切って司令官さんを抱き上げる。

男の人をお姫様抱っこするのはどうなんだろう、と一瞬考えてしまった。でも緊急時だから仕方ありません。

鳥海「今はやれることをしましょう」

球磨「……分かったクマ!」

司令官さんを抱えて走る。

きっと大騒ぎになる――だったらなんなの!?

司令官さんは時々意識が戻るのか、何かを小声で呟くことがあった。

聞き取れる言葉はほとんどない。それでも一度だけ確かに聞いた。

「すまない」と。

誰に向けてかは分からない。何に対してかも分からない。

それなのに、その言葉は私の心を鋭く抉った。

鳥海「……死なせませんから」

司令官さんを助けたい。

それが私の正直な気持ちだった。

◇◆◇◆◇◆

白い天井が見えた。

――すごく疲れた。

寝よう。もう寝よう。

大切な何かが置いてきたままになってる気がするけど、もういいじゃないか。

寝る。

「起きろ、提督!」

◇◆◇◆◇◆

「おうっ!?」

駆逐艦みたいな声が出て慌てて跳ね起きる。

見えたのは机に黒電話。そして腕組みをして、おかしそうに笑っているセーラー服の艦娘……木曾。

「こんな作戦前に居眠りとはずいぶんと余裕があるじゃねえか、提督さんよ」

俺は知っている。この光景を。いや、覚えてると言ったほうがいいのか。

「これは……あの日か!」

「それだけ信用してくれてるってことか? まあ厳しい戦いになるだろうが俺たちに任せとけ」

目の前の木曾は不敵に笑う。そして凛とした声で言うんだ。

「お前に最高の勝利を与えてやる」

「だめだ、お前は出撃するな! これは命令だ!」

木曾はふっと笑う。見返す左目は優しく見えた。

「それは無理な相談だ……分かるだろ? これは提督、記憶なんだ。どんなに望んでも過去を、起きた事実は変えられない」

おかしな話をしているのに、それが正しいのだとすんなり受け入れていた。

「……忘れたくないから思い出すのか?」

「さあね。それか逆に……忘れたいか、俺を?」

「それを俺に言わせるのか? 言わなきゃ分からないのか?」

「分からないな。特に今の俺は。話さずとも伝わるってのは落とし穴だよな」

「嫌だ、忘れたくない」

「忘れないでもらえるのはありがたいんだろうな……でも提督が引きずるのはご免だ。俺は嫌だねえ……望んでないんだよ、そんなの」

木曾の穏やかな笑顔に苦味が混じる。声もいくらか押し殺したようになる。

「忘れろというのか?」

「引きずられるなって言いたいのさ」

左目の視線が俺から外れたようだった。しかし声の調子は戻っていた。

「今そこにいる生者が過去の死者に囚われたままなのは不幸ってことさ」

背を向けたままの木曾は天を仰ぐ。

「ありがとうな。でも、もういいんだ。俺は提督を苦しめたくも縛りたくもなかったんだ……本当だよ?」

木曾「お前に最高の勝利を与えてやる」

提督「頼もしいな、木曾は」

木曾「なんだぁ、寝てたと思えばそんな辛気臭い顔して。言ってることと顔が全然違うぞ」

指摘されたように俺は自分の内心を隠せていない。

いや、隠す気力が初めからなかった。

提督「自分で厳しい戦いになるって言ってただろ。それで心配してるんだ」

木曾「嬉しいねえ。俺は果報者だ」

こっちの心配などどこ吹く風といった様子に、さすがに少し腹が立った。

提督「ふざけてるのか?」

木曾「いいや、大真面目さ。心配してくれるやつがこうしているんだからな」

そういって木曾は笑う。いつもの唇がきれいな弧を描く不敵な笑み。

いつもならこの顔を見るだけで根拠もなく何とかなるという気になるが、この時はそうならなかった。

作戦会議中に提案して、あっさり俺以外に満場一致で却下されたことをもう一度言う。

提督「なあ、やっぱり俺も作戦に参加したい」

木曾「参加してるだろ」

提督「前線にだよ」

木曾「よしてくれ、そんな自殺行為は」

取り合う気はないと威嚇するように木曾は左目を細める。

提督「艦(ふね)なら用意できる」

木曾「気持ちは痛いほど分かるけど勘弁してくれ。あんたが出て行ってどうにかなるもんじゃないだろ」

提督「士気の鼓舞と戦況判断ぐらいはできる」

木曾「で、そのために押されてる戦力を割いて提督の護衛もしなきゃいけなくなるわけだ。大忙しだな」

木曾の皮肉はもっともだった。

それはずっと前から……提案以前から分かりきっていたことだ。

木曾「……分かるだろ。輸送船を守りながら艦隊決戦をするのが、どれだけ負担になるのかを」

十分に分かる。そう、足手まといを抱えて勝てるような戦いじゃないんだ。

俺のわがままのために麾下の艦娘に負担を強いるのはもっての外だ。

木曾「それに誰も提督に死んで欲しくないんだ。あんたがどうでもいい男なら、適当におだてて連れ出しても良かったんだけどな」

提督「なんだそりゃ、海の藻屑にでもするつもりか?」

木曾「戦場では何が起きても不思議はないからなあ。流れ弾が直撃するかも」

珍しく木曾はため息をつく。

木曾「いいじゃないか、別に。提督の魅力は腕っ節じゃないだろうに。誰が提督は戦ってないなんて言った? 誰も言わないし思っちゃいないさ。提督には提督の戦い方が、俺たちには俺たちの戦い方があるってだけさ」

提督「そうは言うが……」

身を案じられている。この時ほど自分の非力を痛感したことはなかった。

木曾「なあ提督、俺たちは強いのか?」

提督「当たり前だ」

その返しに木曾が近づいてきて、俺の右掌を両手で包むように取る。

少しひんやりとした手で指は細かった。

木曾「それならさ、守らせてくれよ。強いなんて言われたって守りたいものがなければ空しいだけだ。ただ強いだけの艦娘にどれだけの価値があるんだ?」

独白のような言葉。俺と変わらない、同じだと言われてるような気がした。

それは木曾が初めて見せた弱さだった。

木曾「ただ敵を倒し続けるだけでさ……そんなんじゃ俺たちは敵と、深海棲艦と変わらなくなっちまう。よくても道具か部品だ。俺は……そんな俺は嫌だ」

提督「……そうはならない、俺がそうさせない」

手を握り返す。

木曾も強く――加減はしてくれてるのだろうが握り返してくれた。

木曾「まだ……不安か?」

提督「……いつだってそうだ。送り出すだけは辛いぞ」

木曾「だったら、いつだって俺はお前に約束する。最高の勝利を与えてやる、ってな」

木曾はすごくいい顔で笑った。

そんなのを見たら信じるしかないじゃないか。

木曾「けど、そうだな……形からは入れとも言うよな。提督、笑い方を変えてみないか? もっと威厳があるようにさ」

提督「例えばどんな?」

木曾「くくく……」

提督「くくく……」

木曾「くくく……怖いか?」

提督「って天龍かよ!」

木曾「あっちはフフフだろ。それにあれかっこいいだろ」

提督「お前、ほんと天龍が好きだな……妬けるよ」

木曾「なっ!? 恥ずかしいこと言うなよ!」

照れ隠しに背中を強く叩かれて息が詰まった。

そんな俺に構わず木曾は離れる。

木曾「ふん……でも俺は本心で言ったからな。今の笑い方も、提督を守りたいのも。だから後は俺たちに任せとけ」

不安は消えてなかった。それでもこんな木曾だから大丈夫だと思った――思ったんだ。

木曾「それにしても、海に出ても武器はどうするつもりだったんだ? どんな艦を用意するつもりだったか知らないが、俺らの艤装と艦じゃ台座の規格から何まで違うだろ」

攻撃が通じるか聞かずに、どうとでもなるようなことを聞くのは木曾なりの優しさなのかもしれない。

深海棲艦には現有兵器が有効打にならない。

これは過去数回の決戦――という呼び方の虐殺でも実証されていたし、欧州の某国が原形を保っていたイ級の骸に対して行った実験でも確認されたとか。

なんでも向こうの艦娘用の主砲を――伝え聞くところだと38cm砲だとか――使っての砲撃実験で、延べ千発の砲弾を叩き込んでも損傷はほとんど与えられなかった。

せいぜい小破が中破になるかどうか程度だったらしい。

固定目標相手にこれなので実戦での命中率を考えると……超弩級戦艦を機関砲だけで沈めに行くような有様なのだろうか。

その一方で艦娘が適切な武装を使えば、深海棲艦にも有効打を与えられるようになる。

提督「一応、武器もあるにはあった」

つくづく無謀を言ってたのだと、少しは落ち着いた頭なら分かる。

足手まといどころの話じゃない。

木曾「武器にはあの刀も入ってるのか?」

提督「刀? ああ、あれか。確かに飾りではないけど……」

後ろのクローゼットから黒塗りの鞘に収まった刀を取り出す。

以前、何かの弾みで木曾に見せたら気に入られたらしい。そういえば天龍みたいな剣も欲しがっていたっけ……。

木曾に刀を渡すと、鞘から刀身をいくらか抜く。

木曾「やっぱり業物だ」

提督「分かるのか? 俺は分からない」

木曾「おいおい、あんたの所有物だろ。どう見たって支給品じゃないぞ、これ」

提督「貰い物だからな。手入れの仕方と基本的な振り方は叩き込まれたけど、使う機会なんてない……深海棲艦相手じゃなおさらだ」

木曾「そうか……いい刀なのに」

提督「……いいよ、そんなに使いたいなら持っていって」

木曾「いいのか!」

木曾は刀を収めると抱きかかえてしまう。

もう持ってくつもりじゃないか。別に構わないけどさ。

提督「いいけど、俺からすればそういう近接武器を使わざるを得ない時点で負けてる気がするんだがな……ラムなんて装備されてなかっただろ」

木曾「別に剣や刀があっても困りはしないだろ。どうせ連中は突っ込んでくるんだし、当てにしすぎるのがいけないだけだ」

提督「物は言い様だな」

木曾「これは掘り出し物だな……なあ、誰からもらったんだ?」

提督「形見だ。育ての親の」

木曾の表情が険しくなる。

こっちとしては別に言いにくい話ってわけでもない。聞かれない限りは絶対に言う気がないだけで。

木曾「お前は形見を俺に預けようって言うのか?」

提督「使える人間が持ってる方がいいだろ」

木曾「そういう意味じゃない。これは提督と親を繋ぐ物じゃないのか?」

提督「気にするな。物でしか繋がらないような関係をやってきたつもりはない」

木曾「……俺はたまに提督が分からなくなるよ」

木曾は今日二度目のため息をついてから、小さく笑う。

木曾「これは借りる。後で返すから」

提督「なくしても気にしないからな」

木曾「あのさ……大切な物なら大事にして何が悪い? さっきのが本音でも物をぞんざいに扱っていい理由にはならないぞ」

正しいのは木曾だろう。しかし、これ以上はこの話で議論の出来損ないをするつもりはなかった。

◇◆◇◆◇◆

前触れもなく景色が変わった。

どこかの海上を見下ろす形で俺と木曾は浮かんでいる。高さは海抜30mぐらいに見える。

静かな海だった。波は穏やかで空は晴天。雲量は2といったところで風は……方向が分からないが微風のようだ。

「正直さ、提督が親の話をしてるのを見ると、あんなに俺の死を引きずるなんて思わなかったな」

「冷血漢って言いたいのか?」

「自覚なさそうだけど、むしろ逆だろ? それだから驚いたんだよ。しかも形見はいらないときた。となれば親が嫌いなのかなってさ」

「……もう11年も前の話だったからな。逆に深海棲艦が現れる前に大往生できてよかったと思ってるぐらいだ」

同期の半数以上はもうこの世にはいない。顔を知らないほどの上も下も似たような状態だ。

そんな状況に直面することもなく、平和を謳歌できたまま逝けたあの人は少なくとも不幸ではなかったはずだ。

「悪りぃ、前言撤回する。提督は好きだったんだな、育ての親が」

「……そんな風に言われたのは初めてだ」

恥ずかしいことを言うもんだ。木曾から視線を逸らすと足元に水柱が高々と上がった。

それまでいなかったはずの艦娘たちが現れ、砲声や艤装が波を切る音、そして悲鳴のような声が聞こえてきた。

龍田と叢雲が海面に爆雷を次々と投下していくのが見え、水柱が収まった先には艤装をやられた木曾の姿があった。

この光景に息を呑んだ。何がこれから起きるか知っているからだ。

「ああ、これが俺の最期の戦いなんだ、提督」

木曾の言う戦いは足元でこれから起こる戦いを指してるのか、それとも俺にこれを見せることなのだろうか。

俺を見る木曾はもう笑っていない。ただ静かに俺を正面から見据えていた。

主力艦隊との決戦を目指して進撃していた球磨たちはヌ級を複数含め前衛の水上部隊と交戦していたが、すでに深海棲艦は潜水艦を近海に忍ばせていた。

前衛艦隊を全滅させて気が緩んだ瞬間の虚を突く形で、八射線の雷撃が旗艦の球磨めがけて背後から発射された。

木曾「球磨姉!」

叫び声に球磨も異常を察知し増速、転進を始めるが遅すぎた。

それは見事な雷撃と言わざるを得ない。扇状に発射された魚雷は球磨の退路まで抑えていて、仮に正面から放たれたとしても回避の難しい軌道を作っている。

深海棲艦の目論見が外れたのは、雷撃の瞬間を偶然ではあるがいち早く見つけた木曾が魚雷と球磨の間に割って入ったことだろう。

そして木曾の動きに気づいた龍田と叢雲が素早く潜水艦の潜航地点に殺到する。

木曾も迫り来る魚雷に対して14cm砲と水偵代わりに積んだ12.7mm機関銃を弾幕とし魚雷めがけて放つが海面を叩くだけだった。

木曾は直撃を覚悟した。魚雷が足下に入り込み見えなくなる。と同時に轟音を伴った激震に見舞われ、木曾はバランスを失う。

苦悶の声は水柱の生じる音にかき消されるが、艤装は身をよじるような苦痛を訴えていた。

高く上がった水柱が重力に引かれて降り注いでくる。重油と鉄鋼混じりの怒濤が被雷した木曾の体を打つ。

木曾「ちっ……伏兵がいたのか……」

今や雷撃地点に到達した龍田と叢雲が爆雷を投下していた。

爆雷の爆ぜる音が二人のつま先から体を震わせ、白い飛沫が海面に浮かび上がってくる。何度目かの飛沫には赤黒い液体も混じっていた。

さらに続く爆発の後にその量は一気に増え、深海棲艦の一部も浮いてきた。

深海棲艦の中には自身の損傷した箇所や重油を切り捨て撃沈したと誤認させやり過ごそうとする強かな艦もいるが、浮かんだのは小手先ではどうでにもできない量と箇所だ。

撃沈は確実と見て間違いなかった。

一方、被雷した木曾を球磨が後ろから支えるよう受け止める。

球磨「木曾ぉ! なんで庇ったクマ!」

木曾「バカ言うな、球磨姉……旗艦をやらせるわけにはいかないだろ……!」

いくらか血の気が引いた顔をした木曾は、それでも球磨に笑って見せた。

天龍「潜水艦は!」

叢雲「沈めてやったわ!」

そう言いながらも叢雲と龍田、そして天龍も多摩も他に潜水艦がいないかを探る。

探査もそこそこに木曾の元に天龍が近づき、付近にもう潜水艦が潜んでないと判断した三人も集まってくる。

多摩「これは酷いにゃ……大破してるにゃ」

艤装の破損を見て唸る多摩に素早く木曾は言い返す。

木曾「まだ中破だよ多摩姉。自分のことだからよく分かる」

球磨から離れて木曾は一人で海面に立つ。

14cm砲を載せた懸架アームを木曾は動かしてみせる。

傷ついてはいるが通常時と動きは変わらない。

木曾「見ろ、まだ主砲は使える。魚雷発射管は潰れちまったけどな」

多摩「強がりはやめるにゃ。機関部は? スクリューはどうなってるにゃ? その足でまだ中破だと言い張る気にゃのか?」

多摩の指摘するように木曾の左脚の艤装部分は浸水を始めていて、半ば海水に浸かっている。

艤装にも応急能力があり多少の浸水ならば排水し浸水孔も塞ぐが、すでに許容量を超過しているのは明らかだった。

仮に機関部の損傷が小さくとも穴が空いた状態で速度を出せば浸水が増し、被害をさらに悪化させてしまう。

木曾「じゃあ大破だったらどうだって言うんだ!」

多摩「一時撤退するにゃ。少なくとも木曾は連れていけないにゃ」

木曾「ふざけるな!」

多摩に食ってかかろうとする木曾を球磨と天龍が抑える。

天龍「ちったぁ落ち着け、木曾!」

球磨「そうクマ! 木曾だって本当は分かってるはずクマ!」

木曾「そうだけど、そうじゃねえんだ! もう敵の主力は近いんだぞ! けど、ここで見失ったら次はいつ捕捉できるか分からない! それに祥鳳たちだって俺たちを必死に送り出してきたんだぞ! 肝心の俺たちが、こんな所で一時でも撤退しちゃいけないんだ!」

多摩「それは木曾が無茶をしていい理由にはならないにゃ!」

木曾「なる!」

多摩「ならにゃい!」

木曾「俺だって戦わなくちゃならないんだよ、多摩姉ちゃん!」

多摩「っ! ダメ……にゃ!」

一瞬だが多摩は言葉に詰まった。気持ちが揺らいだからだ。

木曾が球磨と多摩を姉『ちゃん』と呼ぶ時は本気で甘えに来てる時だけだった。

この場でその呼び方を出すと言うことは、折れる気はないと言ってるのと同じだった。

球磨「二人とも止めるクマ! ケンカなら帰った後で好きなだけやればいいクマ」

叢雲「ちょっといい?」

落ち着いた声で叢雲が口を挟むと、木曾は睨み返す。

腕組みをした彼女は木曾にも気圧されていない。

叢雲「木曾の言い分は分かるけど私は多摩に賛成。今の木曾は動けるだけで連れて行けるとは到底思えないわ。私たちが進むのなら木曾には自力で浮きドックまで下がってもらわないと」

龍田「でもぉ、いくら自力航行ができるからって、ここはもう敵の勢力圏内よ。一人だけって言うのは、いくら木曾ちゃんでも危ないんじゃないかしら~」

叢雲「そう。だから私たちの中から誰かもう一人が木曾の護衛について下がらないと。一人でなく二人でね」

叢雲は木曾ともう一人を強調する。暗に木曾が暴走するなら誰かが止めないといけない、という意味も込めている。

天龍「そうするしかないか……四人で決戦か。厳しくなりそうだな」

球磨「球磨も木曾を連れて行くのは反対クマ」

木曾「球磨姉……!」

球磨「……提督に連絡するクマ。この作戦で退避となると球磨たちだけで決められないクマ」

球磨はそう言うが嘘だった。

提督は前線に出られない以上、実際の状況がどうしても見えてこない。

そういった状況で上層部が下す命令は、かえって前線の艦隊を窮地に追い込みかねないのを提督は過去の戦史から教訓として知っている。

それ故、提督は現場での判断を常に優先させていたし、南一号作戦の時もそれは変わらないと球磨には言い含めていた。

とどのつまり、敢えて提督に連絡を取るのは提督が撤退を命じれば木曾も大人しく従うしかないと、球磨が考えていたからだ。

作戦室に詰めていた提督に球磨は連絡すると、事のあらましを説明し木曾の一時撤退を進言した。

提督もそれを伝えてきた事情を察し、木曾と護衛の一人が退避するの承認する。

木曾「ちょっと待て、提督!」

それに噛みついたのは、やはり木曾だった。

木曾「みんなが大げさに言ってるだけで俺はまだまだ戦える!」

提督「……どうして、そんなに戦いたがる?」

木曾「俺は艦娘だ。戦ってなんぼだろ」

提督「その状態で一撃もらったらお終いだぞ?」

木曾「自力航行はできる。要は当たらなければいいんだ。それに主砲はまだ使えるし、自分で言うのもなんだが士気は高い」

提督「しかしだな……」

木曾「お願いだ、提督。俺はあんたに嘘はつきたくない……約束を守らせて欲しいんだ」

提督「それは……どっちの約束だ?」

提督と木曾にしか分からない、二人だけのやり取り。

木曾「――お前に最高の勝利を与えてやる」

提督はすぐに返事を寄越さなかった。

その短い沈黙に木曾は期待し、球磨は懸念を抱く。それを裏付けるかのように提督は木曾から球磨へと問う。

提督「球磨、実際の所どうなんだ?」

球磨「伝えた通りで、それは今も変わらないクマ」

球磨は自分の懸念が的中してるのを悟り、提督に連絡したのを後悔した。

球磨(提督、流されないで欲しいクマ)

その胸の内は届かなかった。

提督「敵主力には全艦揃って当たれ」

球磨「提督、考え直してほしいクマ!」

提督「……止めたって行くんだろ? だったら初めから命令として送り出した方がいい」

硬い声だった。六人の内、三人はその響きに危うさを感じるが、手遅れなのには気づいていなかった。

木曾「助かるぜ、提督。任せろ、後悔はさせ」

提督「黙れ! 人の気持ちも知らないで簡単に言うんじゃない!」

提督の怒声に水を打ったように静まりかえった。

波のうねりだけが思い出したように自己主張を始めるが、一同にはどことなく耳障りに聞こえる。

提督の着任時に一緒に赴任したのは叢雲だったが、彼女でさえ提督が感情的に怒りを露わにした場に居合わせたのは初めてだった。

提督「分かってるのか!? 今の木曾は俺と同じだ! ろくに戦力が残ってないのに前線に出たがってる! 自分が分からないようなやつじゃないだろ! それとも、その程度のやつが俺に説教してたのか!」

木曾「違っ、違う! 俺はただ……」

提督「このまま囮にでもなるつもりか? 勝つために沈んだら後に何が残るんだ! 勝利か? それが勝利なのか? 誰と何を喜べばいいんだよ!? 俺や、そこにいる誰でもいい! 目を合わせて勝って帰るって本当に言いきれるのか!? どうなんだ!」

木曾「……頼む、それ以上は言わないでくれ……」

木曾は咄嗟に耳を塞ぐ。そんなことをしても声は変わらず聞こえると分かっていたのに。

提督「勝ってみせるだとか――そんな約束、破っちまえ!」

通信機越しに荒い吐息が聞こえてくる。嗚咽のようにも聞こえるその呼吸を提督が抑えようとしているのが彼女たちには自然と思い浮んだ。

提督「取り乱して……すまない」

抑揚を必死で消そうとしているかのような声で、微かに震えが混じっていた。

提督「……これでもまだ、戦いたいのか?」

木曾は穴の空いた水兵帽を目深に被り直す。提督はそこにいないのに隠れるように。

木曾「……不安だよな、すまない。本当にすまない。だが俺は約束を守る……勝たせてやる」

提督「……そういうことは帰ってきてから俺の目の前で言うんだ。勝たせたぞって。吉報を待つ」

誰もが提督の声を忘れられなかった。顔が見えないからこそ、悲痛な叫びとして残った。

提督との通信が切れてからすぐに球磨たちの艦隊は西に向かって進んでいた。

索敵のために飛ばした水偵が残る主力艦隊を発見したためだ。

陣容はelite型のヌ級1隻にロ級が4隻と、想定していたよりも小規模な編成だった。

深海棲艦側も決着を望んでいるようで水偵が飛んできた方向を目指して――球磨たちを目指して移動していた。

これは速度を出せない木曾を抱えている球磨たちには都合がいいと言える。

現在、球磨たちは天龍と龍田、叢雲がやや先行し、その後方から球磨と多摩が併走して木曾を曳航していた。

木曾はその間に機関の出力を最低限まで落としつつ排水と応急修理に専念していた。

その結果、14ノット程度なら速力を出せるぐらいには回復している。もっとも空いた孔は完全に塞がっていないので、一時しのぎでしかないのも確かである。

木曾は応急修理ではこれ以上は回復しないと判断し、機関の出力をいくらか上げる。損傷の影響で増速の効きが鈍くなっているからだ。

背を向けたまま曳航し、たまに遠慮がちに振り返ってくる姉たちとの距離が縮まる。

木曾「さっきは……ごめんよ、球磨姉ちゃん、多摩姉ちゃん」

多摩は併走する球磨を見る。球磨は頭をかいてから振り返る。

球磨「本当に困った妹クマ」

多摩「まったくにゃ」

多摩も相づちを打つ。

球磨「木曾は提督のためにあんなにムキになってたのかクマ」

多摩「素直にそう言っておけば、あんな風には怒らせなかったにゃ」

木曾「……面目ない」

球磨「……否定しないのかクマ」

木曾「え?」

本当に分かってない様子の木曾に、球磨と多摩は肩を落とす。

球磨「木曾は提督を男として意識してる、そう言ってるクマ」

木曾「いやいや、俺は別に!? 別に……なんなんだろうな?」

多摩「濁されたって分からないにゃ」

木曾「自分でもよく分かってないんだ……最初は別に提督を見たり話してもなんともなかったのに、段々会ってる内にもっと話したくなってさ、気づいたら用もないのに部屋に行ってたりするし、なんか胸が苦しくなるし触ってみたくなるし」

球磨「お前は小学生かクマ」

木曾「それなのに話してる時はすごく気が楽だし胸の苦しさもなくなるんだ。それで満足して帰ると、今度はなんでもっと話さなかったんだろうとかって思ったり……」

多摩「これは重症にゃ」

球磨「重症クマ。もう球磨たちの手には負えないクマ」

木曾「なんだよ、それ! 意味分かんないんだけど!」

球磨「多摩が教えるクマ」

多摩「そこは長女である球磨のお勤めだと思うにゃ。多摩は声に出すのも恥ずかしいにゃ」

やんわりと、しかし明確に拒否された球磨はぐぬぬと歯噛みする。

それでもすぐに諦めたようだった。

球磨「……仕方ないクマ。まず、それは恥ずかしいことじゃないクマ。先にそれだけは言っておくクマ……」

木曾「お、おう」

前置きする球磨も恥ずかしいのか、ある意味で木曾に負けず劣らず落ち着きがなかった。

球磨「木曾のそれは提督への……あ、あああ愛情クマ」

木曾「え……それって……」

続くはずの声は叢雲の鋭い声によって遮られた。

叢雲「敵艦隊、発見!」

即座に球磨たちは曳航用のワイヤーを切り離す。

そこにもはや緩んだ空気はない。

球磨「木曾はなるべく離れるなクマ!」

彼女たちの表情は戦士のそれに代わっていた。

◇◆◇◆◇◆

敵艦隊との距離は35000で、直に敵艦隊を見た球磨たちは水偵からの報告は誤りだと気づく。

ヌ級に随伴しているのはロ級ではなくホ級軽巡が4隻。

水偵が見誤ったのはヌ級の大きさが原因だった。

軽く全長10mはあろうかという威容で、それまでのヌ級と比べて三倍近い大きさだ。

ヌ級と比較して小さく見えたからロ級と見誤ったのだと悟った。

よく見れば、そのヌ級は足回りがホ級と同じようになっている。

未だ見慣れない赤い光を発する個体というのも相まって、彼女たちにはそれが特殊な相手に思えた。

彼我の距離が30000を切ろうかという時、ヌ級が停止しへ級たちはそれぞれ2隻ずつヌ級の左右に散開する。

ヌ級「ボ―――!」

天に向かってヌ級が咆えた。大気を震わせる雄たけびの最中、ヌ級の纏う光が赤から金色に変わる。

艦娘たちの間に直感的な警告が走る――あの敵は危険だ。

雄たけびを終えたヌ級は乱杭歯を剥き出しにしたまま平坦な顔を艦娘たちに向ける。

目らしき感覚器もないのに、まるで睥睨するかのような動きだった。

口の奥には金色の光とは別に青い光が揺らめいている。

人魂のような光を見て球磨は総毛立つ。本能が避けろと促す。

ヌ級が身を乗り出すのよりも先に球磨が叫んでいた。

球磨「総員散開するクマ!」

警戒心を掻き立てられていた艦娘たちの反応は速かった。

直後にヌ級の口から青い稲妻のような光線が放たれる。

それまで球磨たちがいた場所に閃光が走った。

か細い光条ではあるが膨大な熱量を持ったそれは掠めた水面を蒸発させ、掠めた龍田の艤装を飴細工のように溶かしながら、球磨たちのさらに後方の海面に激突し水蒸気爆発を引き起こした。

「なんなの今のは!? あんなの反則でしょ!」

天龍「無事か、龍田!」

龍田「ちょっと掠めただけよぉ、戦闘には支障ないから」

ヌ級の横に展開していたへ級が一斉に左右から突撃を始めてくる。

分散した艦娘たちを個別に狙おうとしているようだった。

球磨は敵の動きと分散した味方の位置を素早く確認し指示を出す。

球磨「多摩は叢雲と合流してヘ級の迎撃、天龍と龍田もそのままへ級を迎撃するクマ!」

球磨は振り返ると後方の木曾を少しの間だけ見つめる。無言だが木曾とも目が合う。

視線を戻した球磨は告げる。

球磨「球磨はヌ級に突撃するクマ。木曾は可能な限り球磨の背中を守るクマ!」

光線を放ち終えたヌ級は荒々しく息を吐き出し、纏う光も赤色に戻っている。

球磨「連射はできないようだけどヌ級の砲撃には絶対に当たるなクマ! あんなのが直撃したら一瞬で轟沈クマ!」

左右から迫るへ級を迎え撃ちながら球磨は正面のヌ級に向かう。木曾は遅々としながらも球磨の背中を追った。

ヌ級も近づく球磨を標的に定めたのか、まっすぐ向かってくる。

球磨は14cm砲を浴びせていくがヌ級は怯んだ様子もなく前進を続ける。

ヌ級の速度はせいぜい23ノットと鈍足ではある。

しかし鯨のような巨体が水を断ち割るように進んでくる様相は圧巻でもあった。

ヌ級は球磨に対して三基の連装砲で反撃してくる。

球磨(このヌ級……見た目が似てるだけで別物かクマ?)

球磨の疑念を後押しするようにヌ級の砲撃は精度が高く、次々に球磨の周りに至近弾を集めてきた。

頻繁に水のカーテンに突っ込むような状態で球磨の視界が遮られる。

球磨(空母がこんなに正確な砲撃なんて……冗談じゃないクマ!)

そこに遅れて射程内に到達した木曾の放った一弾が初弾からヌ級に命中した。

目立った損傷はないがヌ級の首が木曾の姿を探して左右に動く。

木曾の位置が分かったのか、ヌ級の首は一点で急に止まり動かなくなる。

ヌ級が何を考えたのかは定かではないが、矛先を急に球磨から木曾へと変えた。

球磨を連装砲で狙いながらも木曾へと突撃していく。

球磨「距離を取るクマ!」

木曾「無理な相談だよ! やつのほうが速い!」

互いに主砲を撃ちながら球磨はヌ級の真後ろへと回り、木曾は後進しながら砲撃を続ける。

背面を取れば球磨を狙う砲撃も勢いが衰え、逆に球磨の方が勢いに乗って砲撃を叩き込んでいく。

さすがにそれは嫌がったのかヌ級が海中に飛び込み姿を隠す。

それだけでなく飛び込むのと同時に6本の魚雷を球磨に向けて放っていた。

球磨「雷撃までやるのかクマ!?」

雑な軌道ではあったが球磨は転進して回避せざるを得ない。

相手の姿は見えないが時間を稼がれたのだけは分かっていた。

◇◆◇◆◇◆

ヌ級が海面に飛び込むと、球磨が急遽転進するのを木曾は見た。

木曾の位置からは雷撃は見えていなかったが、何か異質な敵で予想外の攻撃をしてきたのは悟った。

そもそもいかに深海棲艦と呼ばれていても、水上艦に当たる艦種が戦闘中に潜行する例は少ない。

砲撃や加速などの動きを大幅に制限されるからだ。

木曾「こいつはそうじゃないってことか?」

標準装備のソナーでヌ級の位置を探ろうとするが、先の雷撃でソナーは破損していてノイズしか入らない。

木曾は爆雷の深度をあらかじめ20にセットしてから前進を続ける。足元の警戒を続けるがソナーが使えない以上は海中は全て死角と言えた。

右後方から白い航跡が迫ってきた。

突然の雷撃に驚くも木曾の体は自然と反応している。同時に球磨が不自然な転進をした理由もこれだと気づく。

雷跡は本来なら難なく避けられるような進路を取っていたが、損傷の影響で回頭しようにも遅々としていて切れがない。

「こんな雷撃ごときで沈めるか!」

12.7mm機関銃を魚雷めがけて乱射する。

今度は幸運にも打ち込んだ弾丸が魚雷の雷管を叩き、誘爆させることに成功した。

「ははっ、あまり役に立たないと思っていたが水上機よりはいいな!」

快哉を叫びながらも、木曾はすでに魚雷の放たれた方向に進んでいた。

その方向からヌ級が接近してくるのはありえないと木曾は判断した。魚雷の爆発に巻き込まれる公算が高いからだ。

木曾(魚雷は何本積んでた? 球磨姉も狙ったなら今ので打ち止めでもおかしくないか……)

艦娘と深海棲艦では同じ条件とは言えないが、艦娘ならば二斉射で撃ち尽くせる数の魚雷しか積まないので、木曾はそれを前提として考えた。

魚雷が空振りに終わったと分かればヌ級は次の攻撃を仕掛けてくるはずだった。

二度外したならば雷撃の可能性は低いのではないか。脅威となる光線も水中では大きく威力が減退するはずと予想し、次は浮上しての襲撃になると木曾は踏んだ。

木曾は爆雷を後方に投下していく。

このまま海中から肉薄できるのがヌ級の持つアドバンテージだ。

命中の期待は薄いが牽制にはなるかもしれないと考えての行動だった。

腹に響く爆発音が水中で続く。そしてヌ級が水中から飛び上がってきた。

位置は木曾の真後ろで距離は1000を切ってる。

木曾「ほんとに出やがった!」

言いながらも砲撃を始めていた。

外しようのない距離で頭部に主砲と機銃の火線を集中させる。

ヌ級は巨大な左腕で顔を守りながら一気に木曾との距離を詰めてくる。

命中する砲撃が左腕を削り穿つのにも構わずヌ級は止まらない。そして振り上げた右腕を手刀として木曾めがけて振り下ろす。

木曾は身を翻して避けるが、避けきれずに主砲の懸架アームが叩き切られる。

木曾「なろぉ!」

バランスを崩しながらも12.7mm機関銃を撃ち込んでいく。

ヌ級の体に黒々とした飛沫が散るが有効打となっているようには見えなかった。

木曾「豆鉄砲じゃきついか!」

ヌ級の振り下ろされていた右腕が波をかくように真横に振り回される。

木曾「しまっ――」

丸太のように太く硬い指が木曾をつまみ上げる。

ヌ級はもがく木曾をおもちゃのように顔の前に掲げた。

だらしなく開いた口からは汚れた乱杭歯が覗いている。

ヌ級の表情というのは木曾には分からないが、これから食おうとしているのだと思った。

木曾(……嫌な死に方だな、それ)

猛烈な嫌悪感が沸き上がる。

振り解こうにもヌ級の指はまったく動く気配すらなかった。

いきなりヌ級の後頭部で爆発が生じ、木曾の体が指からずり落ちる。

海の落ちるのかと思った木曾の目の前にヌ級の背中が現れる。

木曾「いつっ!」

木曾は受け身を取るも衝撃を完全には殺せなかった。

彼女の体はヌ級が迅速に振り返ったたために、へ級の艦尾のようになっている背中に落ちた。

木曾(さっきのは球磨姉の砲撃か……?)

疑問には思っても、それを精査している余力が木曾にはもうなかった。

先ほど掴まれたせいで機銃はひしゃげて使用不可、艤装そのものが完全に大破してる状態で浮力を残しているかも怪しかった。

同様に木曾の体力も弱っていた。目立った外傷がないだけで無傷でもない。

しかし、それでもまだ彼女は戦意を失っていない。

木曾はその場で艤装を排除する。咳き込みながらも背中に回した右腕が長物を掴む。

黒塗りの太刀。提督からの借り物。そして提督の言葉を思い出して木曾は自嘲気味に笑った。

木曾「使わざるを得ない時点で負けか……確かにその通りだったな」

木曾は鞘から刀を抜くと、足下に一振り。本当にヌ級を斬れるのかを確かめる。

確かな抵抗を受けながらも、刃はそれに負けずヌ級に傷をつける。

ヌ級が痛みを感じたのか、不自然な揺れをしたことで木曾は斬れると確信した。

木曾「提督にとっての形見なら力を貸せ! 俺だって……守りたいんだよ」

声に出してみて、木曾は最前に球磨に言われたことを思い出す。と同時にそれがどういうことなのか分かった。

一度分かってしまえば、すごく簡単だと木曾は思った。

木曾「なんて回り道してんだ……」

だからか、木曾はまっすぐ前に歩き出す。踏み出しも確かで力強い。

艤装を破棄し負傷もしていたのに、木曾は自分の体に軽さを感じていた。

右手が刀の柄を回し逆手に握り直す。

静かにヌ級に後ろから語りかける。

木曾「誇るがいいさ……お前が生き延びられればな」

足元が沈む。そう感じた瞬間、自然と木曾の体は前へ踏み切り跳んだ。

深海棲艦の巨体が木曾を振り落とそうと沈んだ時には、木曾の体は先に前へと浮いている。

逆に浮かび上がったところに木曾は着地した。頭のすぐそばに。

ちょうど二歩駆けたのと同時に、短く力強い呼吸とともに木曾は刀を足元へと突き立てた。

「―~⌒~ゝ!?」

人の言葉では表記できない、陸や海の動物とも違う絶叫をヌ級は上げる。

木曾は刀を捻りさらに押し込んだが、刀身がそこで耐え切れずに半ばで折れた。

ヌ級が直前の計算に基づいた動きではなく、頭部を貫かれた激痛のために海面で大暴れする。

刀が折れた弾みもあって、木曾の体が空中に投げ出された。

浮遊していた時間はごく短い。

滅茶苦茶にもがくヌ級の体が木曾に激突し、背中を打ちつけ水底へと叩き込んだ。

偶然でもそれは木曾にとって致命的な一撃だった。

衝撃で酸素を吐き出し、背骨状に形を変えていた竜骨は砕けるか曲がってはいけない方向へと曲がってしまう。

沈む体を浮上させる力は木曾にはもう残っていなかった。

そして、その一部始終を球磨は見てしまった。

球磨の脳裏には木曾との様々な記憶や些細な思いが一瞬にして甦ってくる。

それは球磨を言葉にならない激情へと駆り立て、その激情はまた瞬間的に闘争心に切り替わっていた。

一方のヌ級も金色に光りだし、狂ったように叫び声を上げる。

あれが来る――球磨はその前に沈めたかった。

球磨は雷撃を試みようとしたがためらってしまう。

魚雷を当てれば近くの海面に落ちた妹も水中衝撃波をもろに浴びて無事ではすまない。

砲撃で仕留めるしかない。球磨の目には木曾が刀で突き刺した部分が見える。

叫び、球磨はそこを正確に撃ち抜いた。

――結果から言えば球磨の判断も苦慮も意味がなかった。

彼女の放った主砲弾はヌ級の装甲を穿ち、主砲を放つためのエネルギーを暴走させたからだ。

ヌ級は白い閃光を発すると、たちどころに大爆発を引き起こした。

球磨を押し返すほどの衝撃波が生じ、それは仮に雷撃を全弾命中させた以上の威力だった。

間近にいてなお無傷だった球磨は幸運としか言いようがない。

そしてヌ級の爆発をきっかけに、各所に残っていた深海棲艦は一斉に退却へと転じていった。

艦娘たちもできる限り追討に移ろうとはしたが、彼女たちの大半もまた満身創痍でそれは敵わなかった。

こうして南一号作戦は終わった。木曾の命と引き換えに勝利して。

◇◆◇◆◇◆

誰もが満身創痍だと天龍は思った。そう思う天龍も例外ではなく艤装は中破している。

主機に大きな損傷がないのがせめてもの救いだった。

天龍はすでに集まっていた仲間たちの様子を見て、何が起きてしまったのかに気づいた。

気づきはしたが、それを無意識に認めず龍田に話しかける。

天龍「何があった?」

龍田「……落ち着いて聞いてね、天龍ちゃん。もう……木曾ちゃんはここにはいないの」

天龍「なら、どこにいるんだよ?」

龍田は無言で首を左右に振る。

認めるのを避けていた天龍の心にじわじわと事実が染みこんでくる。

認めたくないという気持ちを余所に、事実を事実として受け入れようとし始めていた。

天龍「木曾が沈んだってことか? おいおい……言っていい冗談と悪い冗談があるだろ」

いつもなら龍田の軽口が返ってくるような場面なのに、龍田は沈黙したままだった。

そもそも龍田がこんな冗談を言わないのは天龍もよく分かっていた。

球磨は子供のように大泣きしていて、その肩を抱いて支える多摩も泣いている。

叢雲はその様子を歯噛みするように見ていたが、天龍に気づくと話しかけた。

叢雲「……天龍、球磨の代わりに帰投までの指揮を引き継いで」

天龍「おい」

叢雲「帰投するまでが作戦よ。中核を叩いたとは言え、まだどこかにやつらの戦力が残ってるかもしれないのは分かるでしょ!」

天龍「分かってる……分かってるけどさ! 言い方ってもんがあるだろ……」

叢雲「……どんな言い方ならよかったのよ」

吐き捨てるように言って叢雲は天龍を睨む。

叢雲「提督には私が伝える」

天龍「お前……それは貧乏くじか憎まれ役だろ」

龍田「私が伝えるわ」

叢雲「ありがとう、でもいいの。私は初代秘書艦よ? あいつは情けないこと言うだろうから叱ってやる」

普段以上に攻撃的に見える叢雲はそのまま提督に向けて連絡する。

天龍は何もできずに球磨たちを見ているしかなかった。

いっそ泣いてしまおうかとも天龍は考えたが、木曾の大きさを未だに実感できていない部分もあった。

叢雲「……警戒を厳にして帰投せよだって。それから、よくやっただって……」

通信を終えた叢雲は怒っている。

怒っているが、わざとそうしてるように天龍には見えた。

龍田と目が合う。考えてることは同じようだと天龍は思った。

叢雲「なんなのよ、あいつ。文句の一つでも言ってやるつもりだったのに、我慢なんかしちゃって。あんな風に怒鳴った癖して」

叢雲はまくし立てる。

叢雲「きっと今までが上手く行き過ぎだった。私たちがやってるのは命の取り合いなのよ? だから、だから木曾は仕方なかったの。順番が木曾だったって言うだけ。私たちより運が悪かっただけで……私たちが……私が……」

龍田が叢雲を抱き寄せた。驚きつつも叢雲はされるがままだった。

龍田「いいのよ。辛い時にそんな風に気を張らなくても」

叢雲を抱きしめる龍田の瞳は潤んでいる。

それを見て、叢雲を支えていた最後の糸が切れる。

叢雲「だって……だってぇ……無理にでも連れ帰ってればぁ!」

叢雲は龍田の胸に顔をうずめてしゃくりあげる。

天龍「あのバカが……」

天龍は天を仰ぎ目元を拭った。

◇◆◇◆◇◆

電話を取って入渠ドックの妖精たちに連絡し、これからの段取りを再確認する。

戻ってきた艦から順次入渠させて1から3番ドックは小破までの艦娘を、4番は中破以上の艦艇に当てて高速修復材の使用も許可している。4番ドックは全艦艇が戻るまでは中破以上の艦娘のために空けておく。

その後、補給と修理の済んだ艦娘は三隻ごとに組ませて帰投する艦隊の護衛に回す。

深海棲艦の潜水艦隊が動いているらしいとの情報もある。この期に動いてくる可能性はないとも言いきれない。実際に弱った艦隊が狙い目なのは確かだ。

段取りは作戦として艦娘にも伝えているから、これ以上は言わずとも機能する。後は応用の問題だ。

提督「外に出てくる。何かあったらすぐに回してくれ」

管制を続ける妖精たちに言い残して作戦室から出た。

通信用のインカムからは空電の耳障りな音がする。

今すぐ投げ捨てたい衝動に駆られるが、艦隊が戻るまではそうもいかない。

外に向かっていたはずなのに、いつの間にか執務室の前に来ていた。

どうかしてる。髪をかきむしってから改めて外に、波止場に向かう。

インカムの空電は未だにやまない。

提督「あ、あ……」

口を押さえる。そうでもしないと、すぐに叫びだしてしまいそうで。

いっそ狂ったように叫べるのなら、それがよかったのかもしれない。

しかし自分の中の一線がそれを限界の手前で保ってしまっている。

これから艦隊が戻ってくる。頭のいかれた提督を見せるわけにはいかない。今はまだ。今はまだ。今はまだ。

波止場に着いてからは双眼鏡を通して水平線を見つめる。

最初に戻ってきたのは祥鳳たちの機動部隊で――名ばかりではあるのだろうが――祥鳳は無傷に見えたが護衛につけた艦娘たちは手酷くやられていた。

神通は艤装から白煙が燻っているし、大潮は主砲を失っている。

朧の蟹は黒こげになってるのに元気に動いてるようだ。なんだあれ。

白露は手傷を負った時雨に肩を貸す形で航行している。

那珂がこちらに気づいたのか、何か大声で言いながら手を振ってきた。余力のある何人かもそれに続く。

双眼鏡から目を離すと、まだ彼女たちは黒い点にしか見えない。

こちらが双眼鏡でやっと見える距離なのに、向こうには普通に俺が見えているらしい。

妙な感心をしながら手を振り返した。

――まだ木曾のことは知らないはずだ。

だから笑って手を振り返す。無事に帰ってきた彼女たちのために。

彼女たちの帰還が嬉しくないはずないのに、なんでこうも辛いのか。

空いた穴は埋まっていない。むしろ広がっていってるようにさえ思えた。

人には心を隠すための仮面が必要だ。誰かのためにと思うなら、なおのこと。

一人の喪失でこれだ。

誰かが沈むためにこうやって苦しみ続けるのか?

それとも、どこかで摩耗して何も感じられなくなってしまうのか?

どちらもお断りだ。

今は笑う。それが本心でないとしても、そうしなければ俺はここに立つ資格さえなくしてしまいそうだったから。

一番最後に戻ってきたのが球磨たちの艦隊だった。

木曾はいない。

事前に知らされていても、その事実を突きつけられるのは辛かった。

球磨がこちらに気づいた。本当にいい目をしてる。睨まれてしまい双眼鏡を下ろす。

インカムの周波数を球磨たちに合わせる。

提督「先に入渠してくれ。俺もそっちに行く」

手短に了解と返ってくる。返事があるだけましだと思いたい。

合わせて護衛と哨戒に出ていた艦娘たちも、作戦室の妖精経由で呼び戻させる。

ドックに向かう足が重いのは気乗りしてないからか。

目的地に着く前に球磨と多摩が向こうからやってきた。

球磨は肩を怒らせて歩き、多摩はしょげ返っている。

どう声をかければいいんだ?

正解なんてない気がした。

球磨「帰投したクマ。敵主力のヌ級空母を5隻撃沈、へ級軽巡を7隻撃沈、駆逐艦はイ級とロ級を合わせて12隻は確実クマ」

提督「そうか」

球磨「被害状況は龍田と多摩が小破でそれ以外は中破クマ。木曾が……」

提督「……もういい」

球磨「よくないクマ……」

襟を掴みかかられる。見上げる目は見開かれていた。

曲がりなりにも分かる。球磨が発してるのは怒気以上に鋭い殺気だった。

球磨「どうして! どうして止めてくれなかったクマ!」

多摩「球磨、乱暴はよくないにゃ……」

球磨「多摩は黙ってるクマ!」

多摩を一喝して球磨の鼻息はますます荒くなる。

目を逸らさないが答えもしなかった。

何か口にしてしまえば、今の球磨と変わらなくなってしまいそうで。抑えが利かなくなってしまいそうで、それが怖い。

球磨「提督がちゃんと引き止めれば木曾は諦めたクマ!」

思わず球磨の襟を掴み返す。頭の中が白くなる。

どうやって止めろと言うんだ。それがあいつの、木曾の望みだったのかよ! あいつは勝利の約束を口にしたんだぞ? 戻って刀を返す約束じゃなくて、戦って勝つという約束をだ。自分の命が二の次になってたんだぞ! だから止められないと思ったんだよ! 木曾は戦うの
を優先したんだぞ! 守りたいって言ったくせに。お前たちはまだいいさ。共に戦える。俺にはそれができない。分かるのか? 最期も看取れない俺の気持ちが! 分かられてたまるか!

そう言いたいのに、歯ぎしりしか出てこなかった。

球磨「なんとか言うクマ……」

ぶちまければ気が楽になる。でも、それだけだ。誰も救えず、さらに誰かを傷つける。

だから呑み込む。衝動を。欲求を。俺の弱さを。

球磨「なんとか言うクマ! 木曾には言えて球磨には何も言えないのかクマ!」

呑み込む。呑み込む。球磨の唇が怒りで震えている。呑み込む。呑み込む。球磨の鼻が少しだけ拡がった。呑み込む。呑み込む。

多摩「そこまでにゃ」

割って入った多摩が球磨の手を振り解く。

球磨は不満げではあったが大人しく引き下がってくれた。

多摩「ごめんにゃ、提督。今は休ませてほしいにゃ……」

首肯する。今はこれ以上顔を突き合わせても険悪になるだけだ。

球磨は多摩に後押しされて歩き出す。もう俺と目を合わせる気はなさそうだった。

背中を見送っていると、多摩が振り返ってきた。

多摩「提督と木曾の間に何があったのかは知らないにゃ。でも信じてもらいたいにゃ。木曾は……純粋に、提督の力になりたかったにゃ」

何も言えなかった。ただ多摩の気遣うような顔が今はかえって苦しかった。

二人の背中が見えなくなるまで見送る。

提督「……そうだとしても、やっぱり俺のせいじゃないか」

多摩に言われたことは慰めにならなかった。

明けて次の日、すでに鎮守府内に知れ渡っていた木曾の喪失を正式に鎮守府の一同に伝えた。

反応は様々だったが、誰もが動揺して悲しんでるように見える。実際そうだろう。誰もが木曾のことは他人事じゃない。

この辺りはもう自分が誰に何を話しているのか実感がなかった。

何か話してはいるのだけど、それが自分の声に聞こえてこない。話してる相手のことが頭に入ってこない。そんな具合だ。

冷静に俯瞰しているわけではない。思考が止まってるというか、機械的に目の前に反応してるだけような状態だった。

大規模な作戦が終わり木曾を失ったからといって、それで鎮守府の運営が止まるわけじゃない。

むしろ作戦の対応のために後回しにしていた案件がまとめて回ってくる。優先度が低いそれらはとにかく煩雑だった。

秘書艦には誰もつけずにそういった案件の処理を進めていく。

正直に言って、今は誰にも会いたくもないし話したくもなかった。

仕事に打ち込んでいれば当面の憂鬱は忘れられる。煩雑さが役に立つ貴重な場合というやつだ。

その効果が続いたのは午前中の内だけだった。

何かの兆候があったわけじゃないが、自分が何をやっているのか分からなくなってしまう。

俺は何をしている? 何をしたかった? 一度考え出すと何もできなくなってしまった。

それなのに間宮に電話して執務室までビールを一ダース運ばせる。

届けに来た間宮の表情はひどく不安げに見えたが、あれは鏡写しだったのかもしれない。

独りになった部屋で鍵をかける。ああ、こんなものは無意味だと分かっている。それでも鍵は必要だ。

職務中かどうかはもう関係なかった。冷えたビールに口をつける。一口飲んでしまえばわずかばかりの抵抗は消えてしまった。

三本目の瓶を飲み終えた頃には浮ついた気分で床に眠った。

西日が差し込む夕時、悪夢を見て叩き起こされた。目覚めるのと同時に悪夢の内容は思い出せなくなるが、悪い夢だったのだけは覚えている。寝汗が酷い。

四本目のビールは生温くなっていた。次からはせめて半ダースにしよう。

益体もないことを考えているのが分かって、思わず笑ってしまった。次のビールの量だとか、俺は一体何を考えているんだ。明日も同じように過ごすつもりでいるってことじゃないか。

……別にいいじゃないか。何が問題なのか。考えるのをやめた。

木曾の喪失は日常に埋没されなかった。日常の方が堕したようだが。

二日目。

前日の反省を踏まえてビールを運ばせるのは午前と午後の二回に分けて、量も一回半ダースに減らす。

昨日から執務室から出るのはトイレに行く時だけになった。隣にある私室にも寄らず、夜も床で雑魚寝だった。

さすがに様子がおかしいと知れ渡ったようで、艦娘たちが様子を見に来るようになるが大丈夫だと言って追い返した。どう見ても大丈夫ではないのだろう。

だからか軍医も様子を見に来た。モヒカン頭で身長は2m近い偉丈夫という、おおよそ軍医に見えない大男で昔からの悪友でもある男。

問診されるが適当に流して帰ってもらう。木曾の名を不用意に出そうとした時だけは不快感を隠すのを止めた。

寝る度に悪夢を見て起きる。内容は毎回違うようだが悪夢なのだけは分かる。睡眠時間は順調に減っていた。

三日目。

ビールを頼む電話で間宮にも酒を控えるよう頼まれた。

罪悪感がもたげてきた。素直に謝り、その上でやはり酒を所望する。この日は酒が届かなかった。

残っていた分を飲みきり、すでに飲み終えた瓶にもまた口をつけていく。もしかしたら底の方に残っていた一滴が落ちてくるかもしれない。

徒労で空費だった。

軍医は今日も来た。調子を尋ねるので見た目通りだと答えたら、最悪だなと返された。

思わず笑って木曾を思い出して、一気に気分が沈んだ。あいつはもう笑えない。

よくない兆候なのは自覚してる。腐っているのを誰かのせいにしようとしていた。

かといって自分が何をしたいのかも、よく分からなくなっている。

このままでいいとは思わない。しかし、どうしていいのかも分からないというジレンマ。

動けば後悔し、動かなければ無為に時間だけが過ぎる。溺れるための酒もない。

夢のせいで叩き起こされるのは、この日も変わらなかった。

四日目。状況が変わった。

ドアを乱打する音で目覚めた。

疑問に思う頭に元気な大声が被さってくる。

「起きろ、司令官! 起床の時間だぞぉ!」

……深雪の声か? ドアが壊されない内に鍵を外して開ける。

すると吹雪型の一同が揃っていた。一斉に思い思いの言い方で挨拶をされた。

提督「……ああ、おはよう……」

事態が飲み込めてないのもあるが、これじゃただの間抜けみたいじゃないか。

……実際そうか。

吹雪「元気を出してください、司令官!」

白雪「閉じこもっていては御体に触りますよ」

初雪「ん……引きこもりはよくない」

深雪「ちゃんとご飯食べなきゃ元気も出ないぞ、司令官!」

叢雲「気に病むなとは言わないけど限度ってもんがあるでしょうが。もっとしゃんとなさい!」

磯波「みんなの言う通りですよ、提督。私たちだって心配ぐらいします」

わざわざ、これを言いに来てくれたのか?

叢雲「司令官なら、こんな手間をかけさせないで。分かるでしょ? そんな姿で誰が喜ぶと思ってるわけ?」

提督「叢雲……」

叢雲「後はあんたの問題よ。なんとかしてみせなさい」

それだけ言って6人は立ち去っていく。

なんとかしてみせろか……簡単に言ってくれる。だが叢雲が正しいのだと内心はもう認めていた。

どうしたものかと廊下に体を出したまま考えていると初春型の4人が近づいてきていた。

もしやと思っていると、挨拶と言いたいことを言っていく。

その後はさらに朝潮型が来て……こんな調子でまとまって次々と艦娘がやってきた。

心配する声もあれば激励のような声もある。まったく関連なさそうなことをいうやつもいたが。リサイタルやりたいとか。

終わってみればほぼ全員が来た。来なかったのは球磨と多摩の二人だが、それは仕方ない。

というか全員が来るほうが珍しいというか特殊なんだ。

……どうやら俺はまだ見放されてはいないらしい。

不思議だった。

塞いでたはずの気持ちに、唐突に生きているのだと奇妙な自覚が出てきた。

そんな自覚が出てくると急に体の臭いが気になってきたし無精ひげも鬱陶しくなった。

朝風呂に入ろう。昨日までなら考えもしなかったことだ。

私室に戻って下着の替えを引っ張り出して廊下に出ると、どうも後をつけられているようだった。

廊下の角を曲がってから振り返って待つと長月と菊月が揃って飛び出してきて、俺に気づくと表情がしまったとばかりに変わる。

提督「つけてたようだが、どういうつもりだ?」

長月「……率直に言おう。何か早まった真似をしないか確認だけはしようとした」

菊月「私たちの中にも懸念する声が出ている。よもやとは思うが、みんな心配なのだ」

余計な心配を、とは思うが説得力はないのだろう。さすがにそこまで柔じゃないつもりだが。

提督「臭うから風呂に入りたいだけだ」

長月「風呂か……刃物は持ってないだろうな?」

提督「持ってるわけないだろ。ここで確かめるか? それとも、なんなら一緒に入るか?」

長月「な……破廉恥なことを!」

菊月「うむ……共に往こう」

提督「それはよくない」

ため息が出た。艦娘というのが時々分からなくなる。

とにかく気持ちだけ受け取って二人にはついてこないように頼んだ。

数日振りに風呂に入ったということもあって長風呂になった。

風呂に入っている内に空腹感が出てきた。そもそも酒しか口にしていなかったんだから、腹が減ってるのは当然だった。

今まで空腹感がなかったのは、よほど参っていた証拠なのかもしれない。

身を清めてから食堂に向かう。この時間だとまだ少なからず艦娘が残っているはずだ。

静かに食べたいので、戦場のような騒々しさの食堂に行くのは気が引けるが、それ以上に空腹感のほうが強かった。

想像してたよりも食堂にいる艦娘は少なくて、そこまで騒がしくはなかった。

食堂の受付にいた伊良湖に笑顔で迎えられる。

伊良湖「朝ご飯ですか? 朝ご飯ですね! 間宮さーん、提督入りまーす!」

何も言う暇がないまま話が進んでいた。いつもはメニューを頼むのに、それさえ聞かれない。

案内されたのは――やはり選択の余地はなく中央、ど真ん中の席だった。

食堂にいる艦娘が減ってるとはいえ四方八方を囲まれ、どうにも落ち着かない。

しかも待っている間に、自分たちの朝食を持った球磨と多摩が向かいに座りに来る。

多摩は以前と変わらない表情に見えたが、球磨は仏頂面だった。

仕方ないと思う反面、やるせなさも感じた。自分から向かいに座りに来てるんだから、なおさらだ。

わざわざ、そんな顔を見せに来たのか……見せられても仕方ないか。

程なくして伊良湖が運んできたのはとろろ定食だった。

大盛りの麦飯に、すり鉢には卸したとろろと上にはうずらの卵が添えられている。それから赤身のヅケになめこの味噌汁。

鼻をくすぐる味噌汁の匂いに、正直な体からは腹の虫が鳴る。

球磨「くっ……」

球磨が笑いをこらえる。が、目が会うと顔を逸らされた。

多摩「木曾は喜ばないにゃ」

多摩の発言はいきなりだった。多摩は球磨を見ているからか、今の言葉は俺だけでなく球磨に向いてるように感じた。

多摩「腑抜けた提督にも、そんな提督にいつまでも八つ当たりしてる球磨にもにゃ」

少なくとも俺に関しては正しいのだろう、多摩の言うことは。

多摩「そう思ったから提督は部屋から出てきたにゃ?」

提督「どうかな……でも腹は減った。まだ生きてるのを思い出した気分だよ」

多摩「なら食べるにゃ」

球磨「……球磨はまだ納得してないクマ」

提督「……すまない」

球磨「謝ってほしいわけじゃないクマ……」

球磨は素っ気ない。どうすればいいのか……。

また腹が鳴った。ただし俺じゃない。球磨だった。

球磨「もう食べるクマ! 提督もさっさと食べるクマ!」

顔を赤くした球磨の様子に少し自信が出た。根拠はないけど、今ならまだなんとかなる。

そう思えるとこの数日で一番気が楽になった。

気が楽になると、ますます空腹を感じた。すぐに食べ始める。

――自分でも驚くぐらい食べていた。なるべくがっつかないようにはしたかったが、ほぼ三日振りの食事となれば我慢するのも難しい。

食べるものがとにかく旨かったし、普段は気づかないような微妙な味わいも分かる。ここまで飢えていたのか。

途中で量が足りないと感じた。いつもなら満腹になるような量が出てきてるのに、それでもまだ食べ足りないという気分になる。

どうしたものかと厨房の方に視線をさまよわせていると、受け付けの伊良湖と目があった。

伊良湖「もしかして、お代わりですか?」

咳き込みつつ頷く。満面の笑みになった伊良湖は厨房の奥に引っ込んでいく。

残りに手をつけていると、何人かがテーブルに小鉢を置いていく。

「これも食べていいっぽい!」

「ありがたく受け取りなさい、クソ提督!」

「あー、そんなに腹へってんだ? あたしの好きな野菜サラダあげるよ」

……よく見なくとも野菜サラダばかりだ。体よく苦手な物を押しつけられていた。

提督「さらりと嫌いな物を置いてくんじゃない!」

立ち上がって呼び止めるも、それで待ったりはしない。ああ、もう逃げやがった。

厨房の奥で間宮が目の笑っていない笑顔で一部始終を見てたような気がするが、関知しないと決める。

多摩「調子が戻ってきたにゃ」

提督「……そうかもな」

多摩と球磨を見てると、どうしても考えてしまう。

もしも俺が木曾を引き止められていたら、今は一体どうなっていたのかと。

この場に木曾はいたのかもしれない。でも、この二人は目の前にいたのだろうか? 二人のみならず主力艦隊は。

あの時、もしも木曾を後退させるなら叢雲か龍田のどちらかを護衛につけていたと思う――あの二人なら逆に容赦しないから。

その結果、木曾と二人の内のどちらかしか戻ってこなかったとしたら?

――仮定の話に意味はない。俺たちはいつだって結果の上を生きていくしかないんだから。

俺は最善の選択はできていない。しかし最悪の選択もまたしなかったのではないかと微かに考えてしまう。

言い訳、だろうか。

多摩「何かまた変なこと考えてるにゃ?」

提督「……ああ」

多摩が何を言ってたのかちゃんと聞いてなかったから生返事になってしまう。

多摩「そういう時は体を動かすのが一番にゃ。今の提督は運動不足にゃ」

提督「そうかもな」

運動不足か。体を動かす、というのは確かに今の俺に足りてない要素の一つなのは確かだ。

多摩「聞いてたのかにゃ?」

提督「ああ。二人とも手伝ってくれ。部屋の掃除がしたい」

執務室に戻って最初に始めたのは球磨と多摩の二人に言ったように掃除だ。

窓を開けて換気しながら、あちこちに割れて散らばったビール瓶を集めたり荒れた書類を元の位置に戻していく。

これだけならまだよかったが。

球磨「酷い荒れっぷりクマ……」

酔ってた間に自分で壊したのか、椅子や机などの家具や照明などの調度品の類が壊れていた。記憶にはないが、俺しかここにいなかったんだから犯人は俺以外にありえない。

球磨「思い切って部屋ごと主砲で吹き飛ばした方がいいんじゃないかクマ?」

多摩「多摩もそう思うにゃ」

提督「やめてくれ。本当にそうしたほうが良いと思ってるんだから」

結局、家具と調度品は工廠の妖精たちに仕事の合間に直してもらうことにして、球磨たちにそこまで運んでもらった。

球磨は文句を言いながらも、しっかりと働いてくれた。

最後の家具を球磨たちが運んでもらう頃には部屋の片付けは終わり、二人が戻るまで一人で部屋に残った。

これでいいのかは分からないが塞いだままでいるよりはいい。俺に望まれてるのはそういうことじゃないのだから。

俺はきっと報わないといけない。残された人間として。

無為にしたくない。この数日の体たらくはきっと冒涜だ。木曾の有り様を汚してしまう。もうそれは嫌だと素直に思える。

何ができるかなんて分からない。何もできないのかもしれない。

だから、せめて自分に刻むんだ。あいつが生きて、ここにいた証を。他の誰が知らず気づかずとも、俺だけは忘れないように。

物には頓着しない。土台、木曾の形見はないんだ。

木曾の言葉を思い出す。威厳のある笑いかた、だったか。威厳はまったくないと思うが、今となっては俺の中であのやり取りの意味が変わっている。

空回りでも、あれは木曾が木曾なりに考えたことだ。あれはこうだったな、確か。

提督「くくく……くくく?」

木曾がどんな笑い方をしたのか思い出しながら、何度も笑ってみる。

なんだかしっくり来なくて何度も笑う。不自然、作り笑い。それでも構わない。何度も笑う練習をする。

球磨「お、おお……」

いつの間に戻ってきたのか、球磨が唖然とした顔で見ていた。

多摩「終わったにゃ。ってどうしたにゃ、球磨?」

提督「くくく……感謝するぞ」

多摩「にゃ?」

急に恥ずかしくなった。天龍っぽいってことは中二病とかいうやつだろ、これ。だが、今はこれで通してみる。

提督「くくく……何を驚く? 普通に礼を言っただけではないか……くくく」

……くどいな。やるならやるで、もうちょっとタイミングや頻度は考えた方がいいのかもしれない。

提督「くくく……すぐに慣れるさ」

とりあえず話し始めに使うのが無難なのか?

そんなことを考えてると、いきなり球磨が頭を下げてきた。

球磨「ごめんなさいクマ! 球磨は提督の人格が壊れるほど追い詰められてたなんて知らなかったクマ!」

提督「いや待て。笑い方だけでオーバーな。俺は正気だ」

球磨「ちょっと錯乱してる時ほど、そういうクマ!」

それは一理あるかもしれない。否定しなきゃいけない場面だし、壊れても錯乱もしてないんだが。

球磨は涙目になっている。

球磨「球磨は木曾に顔向けできないクマ……」

多摩になんとかしてくれと念じながら目配せする。

多摩「どーしたにゃー、てーとくー」

半笑いで言われた。分かっててやってるな、こいつ。

提督「聞け、いや聞いてください。これはそもそも木曾が言い出したんだ」

球磨「クマ?」

やっと話を聞いてくれる気になったらしい。球磨にあの日の木曽が言ってた威厳がどうこうという話をする。

説明すると球磨も背景は分かってくれたようだった。

球磨「でも、どうして急にそんな笑い方をするクマ?」

提督「……忘れたくないからだ。俺にはこういうことしかできない」

球磨「そんなことはないと思うクマ……」

提督「それでもだ」

多摩「多摩は提督がそう決めたのなら応援するにゃ」

球磨「……提督がそれでいいなら球磨に止める権利はないクマ」

提督「ありがとう」

多摩「そうと決まればお披露目してくにゃ! くくく……大掃除の時間にゃ」

なあ、木曾。俺が思うにこれは絶対に笑われるようになる展開だぞ。

でも、それでいい。意図から外れたとしても形は残るし、それだったら笑われるのも悪くないかもしれない。

今は――今なら本当に信じたい。木曾が戦ったのは艦娘の本質だけでなく、それ以上に守りたいものがあったからなんだと。

だから俺ももう腐ってはいられない。仲間のために戦い俺のために沈んだ、木曾のために。

笑え、生きろ。顔を上げるんだ。俺が服す喪はもう終わりだ。

◇◆◇◆◇◆

落ちていく。暗い場所を。

冷たいと思ったのは初めだけで、すぐに何も感じなくなってしまった。

落ちていると、こんな噂を思い出した。

深海棲艦は艦娘の成れの果てで、沈んだ艦娘があの姿になるのだと。

噂の常で本当の出所を確かめたやつはいない。

それなのに、さも真実であるかのように語られる。

誰にも分からないのに。死後の世界を誰も実証できないのと同じで。

誰が言いだしたのか分からない、救いのない噂だった。

敵と戦い屠ってきたのに、いざ自分が沈めば今度はその敵として生まれ変わる。

まるで地獄だ。賽の河原で石を積み上げるような……。

いや、違うな。俺たちは石を積んでたんじゃない。崩す側の鬼だ。

深海棲艦が積み上げてきた石を無残に蹴散らす鬼。沈めば報いで亡者の仲間入り。

……笑えない話だ。

当事者じゃないからって好き勝手な噂を流してくれてさ……。

何も感じなかった体に痛みがうずく。

体に傷がついたのとは違う痛み。苦しいはずの痛みは同時に安らぎも感じさせてくれる。

今ならその意味が分かる。

もっと生きたかった。

姉ちゃんたちや仲間たちと、何よりあの人と。

違うものを見て、違うことを感じて、それでも同じ世界にいて、同じ方向に進んで。

俺たちは確かに生きていた。同じ場所に。

かけがえのないことだったと今ならば分かる。

俺たちの世界は最高の世界なんかじゃない。それでも一緒に生きていきたい人たちがいた。

だから、せめて願う。

もしも生まれ変わりがあるなら……俺はもう一度、俺として生まれ変わりたい。

たとえ望まない結果になったとしても、それでも俺は俺がいい。

体はもう沈まなかった。

何もないはずの闇に光が射したような気がして、動くはずのない手を光に向けて伸ばした。

◇◆◇◆◇◆

南一号作戦が終了してから四ヶ月が過ぎた。この四ヶ月は雌伏の時と言えるのだろう。

まず艦娘の多くには本格的な外洋航行の訓練が必要だったので、それを修了するまでにかなりの時間を取られた。

これは今まで本土近海まで深海棲艦に攻め込まれていたため、そういった訓練が完全に後回しにされていたからだ。

また南西諸島に進出するに当たり古いままの海図の刷新も図ることとなったり、こちらの補給線を狙い始めた深海棲艦の潜水艦隊に対応するなどした。

他にも新たに艦娘の着任もあった。

飛鷹型の二人を皮切りに重巡のネームシップ組に他数名の重巡、戦艦の山城が相次いで着任し、近い内に正規空母の赤城もやってくる予定だった。

南一号作戦の時にこれだけの戦力があれば、というのは繰り言にしかならないがやはり考えてしまう。

そういう考えはいらない書類と同じで裁断して燃やすしかなかった。

この日もまた艦娘の着任があると出撃していた艦隊から連絡があった。艦隊からの連絡なので、海上で保護したということだ。

――艦娘が着任する過程は二つある。

一つは旧大戦時の軍艦に様々な資材を掛け合わせ、さらに開発資材と呼ばれる物を組み込んで魂が宿るのを期待すること――あるいは受肉とでも言うべきか。

これは開発資材が貴重なので、艦政本部が主導して行っている。

が、なかなかうまく行かないというのが実情だ。

開発資材が不足してるのもあるが、そもそもの成功率からして低い。加えて艦娘というのは元の軍艦が残っていようと、艦娘として存在できるのはどうも一人だけらしい。

研究者は開発資材――エリクシルだとか賢者の石だとか呼ばれるそれが魂を与えると考えてるようだが、俺からすれば器を入れ替えてるだけじゃないかとも思う。

いずれにせよ物に魂は宿るのか、そもそも魂とはなんぞやという哲学になりそうな話は避ける。

大事なのは、そういった事実があると言うことなのだから。

ちなみにこの方法は失敗すると艦娘が妖精に化ける。化けるという言い方はおかしいとも思うが、携わった経験のある人間に言わせれば化けるとしか言い様がなかった。

妖精は妖精で艦娘のサポートに欠かせない存在なので鎮守府に回されてきたり、そのまま艦政本部で艤装の開発などに携わる。妖精に扱えない艤装は艦娘にも扱えないからだ。

もう一つは……海上で保護する場合だ。

これは謎に満ちている。

まれに深海棲艦との戦闘後に海上を漂流している艦娘が発見される場合があるが、どうしてそういうことが起きるのかが謎だった。

こちらは発見例こそ少ないが、そういった艦娘は初めから練度が高い状態で加入してくるという共通点があった。

ここでは神通などがそれに当たる。

おそらく、この話がどこからか漏れて尾ひれ背びれがついたのが、深海棲艦は沈んだ艦娘の成れの果てという噂だろう。

むしろ逆ではないかと思うが、いずれにしても真相は闇の中だ。解明する気もなかった。

彼女たちの出自は俺には関係ない。すでに深海棲艦との戦いは艦娘なくして成り立たなくなっている。

そんな状況だからこそ、艦娘は信用できる。その事実一つで十分じゃないか。

昼下がりになった頃、執務室のドアを叩かれた。

誰何すると高雄で、海上で保護した艦娘を連れてきたと言う。

高雄は妹の愛宕共々着任して一ヶ月程度だが活躍には目覚ましいものがある。もう少し経験を積ませたら秘書艦を任せてみようかとも思っていた。

入るよう促すと高雄が入ってきて、そして――呼吸が止まった。

「球磨型軽巡洋艦の木曾だ。よろしく頼む」

見知った顔の艦娘が、よく覚えている声でそう言った。

俺には突然のことなのに、彼女は、木曾はあまりに普通のことのように着任の挨拶をした。

声が出てこなかった。何を話すと言うのだ。

無事だったのか。今までどこにいた? 本当に木曾なのか? どれもがずれてる問いかけに思えてしまった。

高雄「提督?」

提督「……ああ、よろしく。海上で保護されたそうだな」

木曾は少しぼんやりしてるようだった。しきりに左手で胸を触っている。

提督「……どうした? まさか具合でも悪いのか?」

木曾「ああ――いや、そうじゃない。初対面なのに、変だなって」

提督「そう……か。初対面か。くくく……そうだよな」

何がなんだか分からない。分からないが、俺の知ってる『木曾』と目の前の木曾は別人らしい。

こんなことも……あるのか。

提督「もう姉たちにはあったのか?」

高雄に聞く。木曾を見るのにはもう抵抗があった。

高雄「球磨さんたちにはこれからですわ」

提督「それなら二人に会ってくるといい。それと時間ができたら、ここに来るよう二人に伝えてくれ」

高雄「かしこまりましたわ」

高雄に連れられて木曾が部屋を出て行く。その背中を見ていると、退出間際に木曾が振り返ってきた。

見た目はまったく変わらないのに……これが感傷か。

木曾「俺がお前に最高の勝利を与えてやる」

提督「……期待してる」

顔をこれ以上は直視できず、視線を逸らしてからそう言った。

球磨たちが執務室に来たのは夕時だった。話の内容はもちろん木曾についてだ。

球磨と多摩は木曾を姉妹として認めていた。と同時に、あの木曾が俺たちの知っていた木曾とも違うとも言う。

球磨「別人だとしても木曾は球磨たちの大事な妹クマ。球磨たちにはそれが大切クマ」

球磨と多摩はきっと正しい。だけど俺は割り切れなかった。

確かにあれは木曾だ。しかし俺が知っている木曾とは違う。それなのに球磨たちの話を聞いてると俺の知ってる木曾と同じような部分もかなり多い。

もう訳が分からなかった。

だから俺は木曾についてあれこれ考えるのをやめようとしていた。

弱い心はいつだって結論を先送りにする。

それが何を引き起こすか分からないまま、あるいは見て見ぬ振りを決め込んで。

◇◆◇◆◇◆

「提督、今のあんたならあの作戦の時と同じような選択を迫られたらどうする?」

「多摩にも聞かれたよ、それ」

「さすがは多摩姉ちゃん」

姉ちゃん? あまり木曾らしくない呼び方のような気もしたが、こうして聞いてみると親しさのこもったいい響きだった。

「何がさすがなんだか」

「度胸があるってこった」

そういうものか。ともかくとして、今の自分ならどうするかは決まってる。

「言っただろ。それで酷い目に遭った気がするんだが……戦ってもらうさ。俺には止められないんだ……分かるだろ? 艦娘への命令なんて、向こうにその気さえあればいくらだって破れる。こっちには止めようがないんだからな」

「あー……現に噛みついて変えさせちゃってるからな」

「となると命令を守ってもらうには義理や信用しかないんだよ。仲間意識や姉妹との繋がりとかも絡むな。だけど、もし仲間や姉妹のために戦って、その人たちのために命を賭けなきゃいけないとなると……そうしかねない子が多すぎる」

「本当にそう言いきれるか?」

「木曾がそうだったからな。今なら分かる」

「提督……」

「だから沈むのを承知で決死の戦いに臨むなら俺は止めない。むしろ送り出してやらなきゃならないし、もしかすると正しいとも言ってやらなくちゃならない」

「……辛くないのか?」

「辛くないなんて言ったら大嘘だ。それでも提督しか、そういうことは言っちゃいけないんじゃないか?」

「……大変だな」

「極力そうさせないよう尽くすがな。間違った作戦を立てないで判断もできるだけ間違わない、艦娘たちにも練度を磨いて強くなってもらう。でも、一番は艦娘にとって鎮守府が帰りたい場所になってもらうことなんだろうな、きっと」

「帰りたい場所?」

「命を懸けるのはいいけど、死んだってもったいないってことだ。待ってくれてる相手がいるのにさ。――俺を守りたいって言ってくれた艦娘がいるんだ。だったら守られて待つのが役得だろ?」

「……ああ、きっとそうだ。戻って来られてよかったよ」

「俺も木曾に聞きたいんだが」

「ああ、なんでも聞いてくれ」

「今の木曾と、以前の木曾は違うのか?」

「俺は俺だし、あいつはあいつだ。だから、やっぱり違うな。けど難しい話は分からないけどさ、あいつの中には確かに俺の一面もある。脈々と受け継がれる、って言うのか? うまく言えねえなあ。まあ姉ちゃんたちも言ってたけど艦娘の木曾であるのは確かだよ」

「じゃあ……今のお前はどうしてほしいんだ?」

「さあな。それは生きてるやつらが決めることだ。死人が生者に口出ししていいもんじゃないだろ」

「だったらお前はなんなんだ?」

「最初に言ったろ、記憶さ。だからここで話したことなんて提督は覚えてないさ。夢と同じだ」

「ちょっと待て。それって何も残らないのか? 見せられた木曾の最期も……俺は忘れるのか?」

「夢はいつだって覚えていられないからな。それと同じだよ。でも、提督が感じたことは忘れないよ。ああ、そうさ。残らないわけじゃないんだよ。覚えてはいないと言うだけで、感じたことは絶対に消えない」

なんだ、それは……寂しいな……言葉遊びみたいになるが、刹那のせつなさか?

「なあ、提督。俺はいなくとも木曾はいるんだ。そして、あの木曾もあいつなりに苦しんでるんだ。もういない俺の心配より今を生きてるやつを大事にしてやれよ」

木曾ははにかむように笑う。

「俺が好きだと思った男なら、きっとそうしてくれると信じてるぜ」

「……卑怯だ、そんな言い種は」

「あいつを見てやってくれ。それができるのは提督だけなんだから……」

木曾の声が急速に遠のいていく。終わるんだ、この停滞した時間が。

感じたことを忘れないなら、俺に残ったのは――。

◇◆◇◆◇◆

目を開くとまぶしさと痛みが同時にやってきた。目が乾いてるのか、目蓋を閉じても痛みが引かない。

今度は少しずつ開けていく。刺すような光の下、誰かが俺を見ている。ぼやけていた像が徐々に形を結んでいく。

黒い髪、縁のない眼鏡、紺のセーラー服。まだあどけなさの残る顔。

秘書艦の名を呼ぼうとして、声が出てこなくて咳き込んだ。口が動かないし焼けるような痛みがある。

彼女は、鳥海はチューブの付いた水差しを口元に持ってくる。

鳥海「あの、ゆっくり飲んでください。いきなりだと体が拒絶するかもしれませんから……三日三晩、眠りっぱなしだったんですよ?」

冷たい水が喉を潤す。その刺激に少し水を飲んだだけで、また咳き込んでしまった。

水がほしい、何か食べたい。原始的な欲求も一斉に息を吹き返す。

それよりも聞きたいことがある。喉が引きつって、まだうまく声が出ない。

鳥海「何か言いたいんですか?」

聞かなきゃ。そう思ってたのに、近づく鳥海の顔を見たら思いとどまった。

三日三晩、と言っていた。決してつきっきりではなかったのだろうけど、鳥海の顔には憔悴が見て取れた。

もっと最初に言わないといけないことがある。

提督「……ありがとう」

鳥海「え? い、いえ……よかったです。司令官さんが目覚めてくれて」

しどろもどろに鳥海は答える。

今の一言だけですっかり疲れてしまった。

寝ている間、何か夢を見ていた。内容は思い出せなくても、夢を見ていたという感覚がある。

夢だから忘れて……忘れて……違う、そうじゃない。忘れたんじゃなくて思い出せない。思い出せないんだ。

提督「う、あ……」

乾いているはずの視界が突然に歪んで目頭が熱を持つ。

何も思い出せない。すごく大切なことがあったはずなのに、それがなんだったのかを。

そのくせ、心の柔らかい部分に触れて離さない。

込み上げてくるのは焦燥、寂寥。痛みとは違うこの苦しさは、切なさだ。

刹那の間に浮かんで消えた何かが残す感傷。

それはただ苦しいだけでなく、その中にかすかな甘さを残していた。

耐えきれずに、顔を隠して子供のように泣いた。

そうでもしなければ、この心のざわめきは収まってくれそうになかった――。

落ち着いた頃には一種の清々しさを感じられるようになっていた。

胸の内の汚れも涙が一緒に流してくれたのかもしれない。

それはそれでありがたいが、鳥海の前で泣いたという事実はどうにも情けなく思えた。

提督「恥ずかしいところを見せた……」

鳥海「別に私はそんな……」

沈黙がどうにも痛かった。

格好もいつもの二種軍衣でなく青い浴衣のような病院服で、提督でなくただの私人に戻った気分で落ち着かない。

まだ調子は戻ってないが、状況も知りたいので口を開く。

提督「三日三晩も寝てたのか?」

鳥海「はい。意識がなく昏睡状態でした……」

肩を落として俯く鳥海の顔は暗い。

提督「……そんな顔をするんじゃない。台無しだ」

鳥海「司令官さん……」

提督「そういう顔は似合わない。悲しげな顔も鳥海なら映えるとは思うが」

ここで頬なり髪でも撫でてやれば立派なリア充ってやつか。生憎、そんな元気はないし性にも合わないが。

三日の間で気になるのは二つだ。

鎮守府の様子ともう一人の当事者、すなわち木曾の様子だ。

提督「鎮守府はどうなってる?」

鳥海「私と高雄姉さん、それに叢雲さんや一航戦の人たちでそれらしくはしてます。普段と同じぐらいの範囲で開発や訓練はしていますが、遠征任務は越権行為になるという話になって差し控えてます」

なるほど、日課をこなす分にはあまり問題はなさそうだ。

ただ一航戦を秘書艦に据えてた時期は資材、特にボーキの貯蓄が目減りするジンクスがあった。表立って運営に関わるなら、その点は不安だ。

口を出すのは簡単だが、これはこれでまたとない機会かもしれない。

彼女たちに違った視線を与えれば、それは何か成長を促すようなきっかけになってくれる可能性がある。

思い切って遠征の編成から出撃まで艦娘たちに投げてみるか?

このままお払い箱にされそうな気がしなくもないが……それはやっぱり困る。

思案していると、部屋のドアが開いてモヒカンの大男が入ってくる。

軍医「すまないが外してくれないか? 患者と二人で話がしたい」

問いかけるような顔の鳥海に頷く。彼女は一礼をすると部屋から出て行った。

軍医はそれを見届けると椅子の背もたれを前にして座る。

座るといっても巨漢なので大人が子供用の椅子に座ってるような見た目だ。

木製の椅子はなかなか丈夫なようで壊れたりはしなさそうだった。

軍医「あの艦娘……鳥海だったか。貴様の代わりをしながら、空いた時間にはなるべく顔を出すようにしていたぞ。甲斐甲斐しい話だ」

提督「そうか」

軍医「素っ気ないな。照れてるのか?」

提督「そんなんじゃない。嬉しいだけだ」

軍医「それを世間一般では照れてると言うのだ」

提督「うるさいぞ、モヒ。そんな話をしにきたわけじゃないだろ?」

軍医は懐からペンとメモ帳を取り出す。

軍医「所見をまとめる必要があってな。お約束だが調子はどうだ?」

提督「良さそうに見えるか?」

軍医「経過は良好。うまくいったようだな」

なんとなく引っかかる言い方だ。何かの施術はしているのだろうが。

提督「俺の体に何かしたのか?」

軍医「怪我の具合を思い出せるか?」

提督「確か……いやいや、おかしいだろ。歯を吐いた覚えがあるし、顔の骨も折れてたんじゃないか」

軍医「折れるどころか砕けてる部分もあった」

忘れたままでもよかったのに覚えている。俺は木曾に……。

誰かと素手で殴り合いをしたのは兵学校以来だった。

いや、あれは殴り合いですらない。一方的な蹂躙だ。

艦娘というのは艤装がなくとも人間を凌駕した能力を有している。

砲弾が飛び交う戦場を軽装で動き回り、直撃弾をまともに受けても簡単には死ねない――どころか怪我すら負わない場合も多い。

あるいは艤装の重量を支える力を持っている――彼女たちに言わせれば重さを感じないとかなんとか、ふざけた話だ。

人間で言う筋力や運動神経とは異なる力を有しているのが艦娘という存在だ。

彼女たちも深海棲艦と同様に、ある意味で既存の知識や法則から外れた存在と言えた。

だから結果から考えると俺は幸運だったのだろう。まだ生きてるんだから。

軍医「顔が青いな。気持ち悪さはあるか? あるいは痛みが」

提督「どっちも大丈夫だ……ぞっとしただけだ。それより、なんで無傷なんだ?」

軍医「ああ、高速修復剤を使ってみた。おかげで貴重な臨床データが取れた」

提督「へえ……おい待て、人間にバケツだと? 効くのか?」

軍医「かなり希釈したがな。驚きなのは、あのナノマシンは直すべき形が分かるということだ」

モヒはいくらか勢いに乗って話すが、こっちとしては鼻白むばかりだ。

提督「ああ、そうかい……それで副作用は?」

軍医「今のところ判明していない。が、ただちに体に影響を及ぼすことはない」

提督「分かってないのに適当言うなよ」

軍医「分かってると言えば、かなり危険な状態だったが修復材のお陰で三時間ほどで直ったということだ。既存の治療法では複数回の手術と二ヶ月は安静を見込まなければならないのを考えれば、悪くない話ではないか?」

提督「これで実験動物扱いじゃなければな……使われてしまった以上はどうにもならないか」

軍医「飲み込みが早くて助かる」

提督「諦めの早さの間違いだろ」

結果の上を生きなくてはならない以上、事実は受け入れるしかないが……。

提督「よく使う気になったな。人にバケツなんて」

軍医「それだけ危険だったと言うことだ。それにお前は馴染んでるから分からないのだろうが……この世界はどこか歪だ。技術一つ見ても、艦娘にせよ修復材もありえない技術だぞ。俺たちが大往生する頃にさえ実用化できるかも怪しい代物だ。それ故に少しでも調べ
ておきたかった」

提督「どちらも現実にあるじゃないか」

軍医「それが歪なんだ」

提督「分からないね。俺には歪じゃない世界ってのが」

モヒが言ってるのは……なんだろう? 一種の強迫観念か何かか? 誇大妄想とかそんな類の。

世の中、理屈で説明できないことなどいくらでもあると思う。あるいは理屈を支える科学がまだ未成熟だから説明できないのかもしれないが……人の身には世界の理なんぞ分かる話とは思えない。

こういう考え自体、やつからすれば迎合して妥協した結果に映るのだろうか?

提督「まあモヒがそうやって疑問を――命題か? それを本気で追うなら、なるべくは協力するさ。実験台にされるのはさすがに困るが」

軍医「感謝する。医者としての話に戻るが……経過を見たいからもう一週間は入院だ」

提督「一週間も?」

軍医「何せ初めてのケースだからな。何も起きないとは思うが、本当にそうかは分からんさ」

一週間か……艦娘たちに鎮守府を任せるなら、逆にそのぐらいの期間を設けたほうがいいのかも。

俺個人は退屈しそうな気がするが、そこは我慢できる話だ。

一応は鳥海に頼んで資材の収支などは上げてもらうか。それに遠征の編成とかなら、ここからでもできる。

軍医「しかしなんだ。自分の部下に殺されかけるとは、普段からどんな指揮を執ってきたんだ?」

提督「ちょっと何を言ってるのか分からないな……酔って階段から落ちただけだ」

こちらの公式見解に軍医は顔をしかめる。

軍医「俺にも医者として一応の義務がある。正確な診断と適切な処置――そして再発防止だ」

提督「それが?」

軍医「二度目だ。お前があの艦娘……木曾だったか、そいつ絡みで俺の世話になるのは。そして今回は本当に性質が悪い。上官への暴行だ、お前が生きてるからな。軍法会議は免れないし、おそらくは極刑だろう」

艦娘への極刑は即時解体と規定されている。だが、おそらくはそうならない。

彼女たちは貴重だ。解体のほうがマシな目に遭うだろうというのは想像に難くない。

提督「どうやら互いの認識がずれてるようだから訂正しておこうか。一回目は酒浸りになって世話になったんだよな。で、今回は泥酔して階段から転落した。飲みすぎた原因が木曾なら確かに遠因は木曾にあるかもしれないが、そもそもは俺に非があることになる」

軍医「つまりはお前が悪いと?」

提督「それが事実だ」

軍医「そこまでしてなんの意味がある? お前がやっているのは無意味な自己犠牲だぞ」

提督「意味なんて――そうしたいから、そうするだけだ」

誰に強制されたわけじゃない。自分でそうするのがいいと思うことをやってるだけだ。

賢い生き方とは呼べないのかもしれないが。

提督「それに事故にどんな意味があるんだ? 事故は事故であって偶然の産物だろ。つまり貴様がやるのは俺の飲酒断ちを完遂させることだ」

軍医「あくまで……酔って階段から落ちたというのか?」

提督「言っただろ、それが事実だって。それに俺は誰かの犠牲になるつもりなんてないよ」

本当にそうか? と自問した。そうだ、犠牲じゃない。単に俺の生き方がこうというだけで。

提督「急に自己犠牲とか言われても、困る」

軍医「……趣旨を変えるにはタダというわけにはいかないな」

提督「え、袖の下かよ……効果も分からないバケツを使っておいて?」

軍医「あれは治療に必要だったから貸しの相殺にはならん」

提督「……一理あるな。酒か煙草か?」

軍医「俺は下戸だ」

提督「ああ――付き合ってた女にゲロ吐いて振られてたもんな」

軍医「人の古傷を抉るんじゃない!」

提督「許せ。俺も最近は抉られっぱなしだった気がするんだ」

軍医「嫌な患者だな……」

提督「ええと、煙草か?」

軍医「吸うのを止めた。間宮券というのが欲しい」

提督「用立てよう、退院したら」

軍医「10枚だ」

提督「欲張りめ、何に使うつもりだ?」

軍医「俺だって甘い物は好きだ」

真実半分、嘘半分といったところか。意図は分からないが、悪用はしないだろう。

提督「いいさ、用意する」

軍医「交渉成立だ」

悪友はにやりと笑う。本人に自覚はなさそうだが、数名殺してそうと言っても通じる笑顔だった。

気質的には真逆に近いんだが……世の中は分からないものだ。

軍医「だがお前への忠告は本心だ。お前は木曾とか言うのに入れ込みすぎている」

提督「……仕方ないだろ。なんとかは盲目ってやつだ」

軍医「臆面もなく言うな、かゆくなる。用は済んだから帰るぞ」

提督「そうしろ。ああ、面会とかは構わないよな?」

軍医「騒がしくならない程度にしろよ」

モヒはそのまま帰るかと思ったが、去り際に振り返ってきた。

軍医「しかし敢えて言わせてもらうなら悲劇だな」

提督「何が?」

軍医「木曾って艦娘にはさ。お前みたいなのに好かれて」

……こっちの気も知らずに、簡単に言ってくれる。

提督「とっとと出てけ、ヤブ医者」

軍医「ぬはは、モルヒネ漬けにすんぞ」

手で追い払うとモヒは右手の中指を立てるベーテースタイルをやってから出て行った。

まったく……冗談と分かっていても、あの男に言われるとあまり冗談に聞こえてこない。

しばらくすると強烈な空腹感が出てきた。三日も食べてなければ嫌でも腹は減る。

前もこんなことがあったなと思い返す。南一号作戦の後だ。

全体的に悪い記憶ではあるが忘れたいとは思わなかった。人を支えるのは何もいい記憶ばかりではない。

感傷に浸っていたいところだが、空腹感が洒落になっていない。

ナースコールが見つからないので探していると、ちょうどいいところに鳥海が食事を持ってきてくれた。他にも手提げ鞄を持ってきている。

うどんだ。かなり柔らかく茹でられた麺に葱と青菜が添えられていた。消化を気にしてくれてるのだろう。

聞きたい話は残っていたが、まずは食事を済ませる。

折りたたみ式の台の上にうどんを置いて一心不乱に食べる。

何が面白いのか、鳥海は俺がうどんをすするところを満足げに微笑みながら見てた。

提督「地味に恥ずかしいんだが……」

鳥海「私のことは気にしないでください」

時々、艦娘というのがよく分からなくなる。まあ害はないし好きにさせておく。

間宮とも伊良湖とも汁の味が違ったように思うが旨かった。

提督「ごちそうさま」

鳥海「おそまつさまです」

提督「ん?」

鳥海はどんぶりをどけて、どこから持ってきたのか台を布巾で拭くと鞄から書類を出す。

三日分の鎮守府の動きがまとめられた報告書だ。

鳥海「あの、早速なんですけど……確認してもらいたいことが!」

鳥海は話し始めると今更聞くまでもないような確認が何故か続いた。

その前に気になることを言ってたんだが……何も聞くなと言うことなのか?

提督「……ありがとう」

鳥海「え?」

提督「それで、この部分の弾薬の使い方なんだが」

ならば鳥海に合わせる。触れないでほしいなら、こちらも触れさせないように謝意を伝えればいいだけ。

まったく、俺たちは遠回しで何をやっているんだか。

一通り書類の内容を話してから、鳥海は切り出してきた。

鳥海「球磨さんから大体のことは聞きました、南一号作戦のことは」

提督「そうか」

鳥海「司令官さんは木曾さんに何があったか隠す気なんてなかったんですね?」

提督「ああ。いつかは誰かが気づくことだしな。ただ思った以上に気づかれなかったし、この話を真っ先にするのが鳥海になるとは思ってなかった」

球磨たちや当時から鎮守府にいた艦娘たちの間には、木曾に過去の話をしないという暗黙の了解があった。

俺を案じてくれたのもあるようだが、一番はどうしていいのか分からないからだろう。

それはそうだ。あなたは二人目で前のあなたは沈みましたよ、などと誰に言える?

提督「信じられないかもしれないが木曾とこの話をするつもりだったんだよ」

鳥海「信じます」

提督「そうか……木曾はあれからどうしてる?」

鳥海「今は自主的に営倉に入ってます。それと多摩さんも同じように自主的に営倉に」

提督「多摩がなんで?」

鳥海「仕方ない事情があったとは言え、木曾さんの膝を壊しましたからね。私闘ということで……」

提督「まったく……俺のせいなのになんでこんな……」

鳥海「司令官さんのそういうとこ、よくないと思います」

鳥海は真顔だった。

鳥海「一人だけで背負いすぎなんです。確かに司令官さんは鎮守府の責任者で、ここで起きることに責を負う立場なのは分かります。それでも原因の全てを引き受けるなんて……」

提督「責任が負えないなら提督なんてのは必要なくなる」

鳥海「それはそうかもしれません。でも結局は司令官さんに押しつけてるだけじゃないですか。木曾さんのことだってそうです。もし誰かが初めから木曾さんに真実を伝えていれば……」

提督「それは……難しいだろ。俺自身、木曾と向き合うのが怖くて仕方なかったんだぞ? 実際、何ヶ月も中途半端なまま避けてた」

鳥海「だからなんです! 司令官さんが辛いなら私たちがやらなくっちゃいけなかったんです……」

鳥海はあの時のことを本当に知ってるわけじゃない。だからこそ言えるのかもしれない。

鳥海「――もっと私たちを頼ってください。そんなに頼りないんですか?」

提督「十分に頼ってるさ」

鳥海「それならもっと頼ってください。甘えてください」

提督「くくく……ダメ人間まっしぐらだな」

自然といつもの笑い方が出てきた。それはそうか。今やこれは俺の切り離せない一部分なのだから。

鳥海「私はそんなつもりで言ってるんじゃありません」

提督「分かってるよ。分かって言ってるんだ」

少し怒った様子の鳥海に本音を伝える。

提督「怖いんだ。俺は木曾に一番気を許してた。だけど、あいつは沈んでしまって……そういうやつほど俺の前から消えてしまうんじゃないのかって」

鳥海「……でも木曾さんは戻ってきました。そして私たちは誰も消えてません」

提督「そうだな……なあ、鳥海。頼ってなかったら、こんな弱音なんて吐いてないよ」

鳥海の表情から怒りが消えて、代わりに動揺したようだった。

提督「そして、こうも思ってたんだ。言わずとも分かってほしい、伝わってほしいと。これは甘えだ。伝わるかも分からないことを伝わってほしいと欲しいと思ってるんだ。ちゃんと頼ってるし甘えてるよ」

鳥海「……はい」

提督「これ以上はまだ怖いんだ。分かってほしい」

本当に甘えてないなら、こんなことは言えない。

提督「……話を戻そうか。多摩はすぐにでも営倉から出すとして、問題は木曾か。今回のことは鎮守府内ではどう伝わっているんだ?」

鳥海「木曾さんが司令官さんに暴行して、それを止めるために多摩さんが止めたと。動機は不明のままです」

提督「なるほど。となると営倉から出す前に根回しをしないと、今度は木曾が危ないか」

今のところ木曾が提督に暴力を働いたという事実しかない。

南一号作戦以前からいた艦娘なら事情を知ってるからあまり問題にはならないはずだが、それ以後に加入した艦娘たちは別だ。

特に金剛型にはきっちり説明しないと面倒な事態になりそうな気がする。

この機会に全てを話したほうがいいだろう。なまじ隠してしまうと誤解を生む。

……そもそも、それこそが発端だったのではないか。木曾を避け続けた結果、彼女は俺を疑い、こじれた。

提督「鳥海、メモはあるか? 今から集めてほしい艦娘を書くから、グループごとに分けて呼んできてほしい――」

頼ってほしいと言われたのは忘れてない。

提督「――のと、その場にも立ち会ってほしい。場合によっては助け船を頼む」

鳥海「分かりました。姉さんたちには私から伝えましょうか?」

提督「……そうだな。任せていいか?」

鳥海「はい、お任せください!」

したためたメモを渡すと、鳥海は鞄から別の紙封筒を出す。

鳥海「それと……木曾さんから預かってました」

内容を確認してため息をついた。

提督「……解体処置の自己申告か」

鳥海「どうするつもりです?」

提督「どうすると思う?」

封筒を鳥海に返す。この時点で受け取らないという意思表明にはなっているのだが。

鳥海「木曾さんの行為は本来許されるものじゃありません。でも何があったのかを知ってしまうと……これは事故だったんだと思います」

提督「事故か?」

鳥海「ええ、事故です。事件なんかじゃありません」

医者とのやり取りを聞いてたのだろうか、とふと思ったがどちらでもよかった。

鳥海は、俺の秘書艦はこう言えるやつなんだと分かったから。

鳥海「善意と後悔のすれ違いが生んだ悲しい事故です……私は木曾さんに恩義を感じています。あの人は初めて旗艦として出撃した時に色々と助けて頂いているので。そして私たちに欠いてはいけない人だとも確信しています」

立ち上がると木曾の申告書を破いた。何度も何度も。

鳥海「もし司令官さんが木曾さんを罰するつもりでいたなら私も一緒にお願いします。これで私にも責任が生じました」

提督「いいぞ……くくく……そうこなくっちゃ」

やっぱり頼ってないなんて間違いだ。でなければ、こんなにいい気分にならない。

提督「それでこそ俺の秘書艦だ」

◇◆◇◆◇◆

その日は初めて提督と顔合わせをすることになっていた。

秘書艦の高雄に連れられて部屋の前まで案内される。

気がかりがあるにはある。提督がどんなやつか分からない。

姉二人に聞いても提督について何も言わない。会えば分かるからの一点張りで。

意味が分かんねーとは思うが、あの二人の口からあれこれ聞き出すのも無理だった。

それに根掘り葉掘り聞いたとこで実際に見て見なきゃ、そいつがどんなやつかも分からない。

ってことは気にするだけ意味がないってことか。

そんな風に自己解決した頃には提督の執務室の前についていた。

黒ずんだ木のドアだ。それなりに年季が入ってそうに見える。

「準備はよろしくて?」

しっかり頷くと高雄は微笑み返してくる。

なんというか、うちの姉にはない落ち着きと仕種に色気が漂ってる。本物の大人ってやつなのか背伸びしてるところがない。

高雄は扉越しに提督とやり取りをするとドアを開け、俺は促されるままに部屋に入る。

提督は……白い軍服を着ただけの普通の男に思えた。それなのに、なんだ?

胸に軽い痛みが走る。軽い痛みでも、その痛みがあまりはっきりしてたので驚く。

とにかく練習だけはしておいた挨拶をする。

「球磨型軽巡洋艦の木曾だ。よろしく頼む」

その時の提督の目が記憶に焼き付いた。たぶん俺は二度と忘れられないんじゃないかと思うぐらいに。

すごく複雑な目だった。

驚き、恐れ、怒り、悲しみ、喜び、そして知らない何か。

どの感情が表に出てるのかも分からないほど複雑で不思議な目。人はあんな顔ができるのかと感心した。

目を反らせなかった。胸が痛い。なんでだろう、触ってみてもそれらしい傷はどこにもない。

「……どうした? まさか具合でも悪いのか?」

「ああ――いや、そうじゃない。初対面なのに、変だなって」

「そう……か。初対面か。くくく……そうだよな」

ほとんど上の空だった。

それよりもっと提督の目を見たかった。その目で見てもらいたかった。

どうしてこんな気持ちになるのか分からないけど、とても大切なことだと思えた。

「もう姉たちには会ったのか?」

提督が高雄に訊く。俺を見ていたはずの視線も外れてしまう。

なんで、それを俺じゃなくて高雄に訊くんだ?

二人のやり取りが進んで挨拶が終わってしまう。高雄に誘導されて部屋から出て行くことになる。

その前に言おうと思ってたことを言わないと。部屋を出る前に振り返る。

また提督と目が合う。やっぱり不思議な目だった。

今は優しさと悲しさが入り混じってて、それから……どうしても分からない気持ち。

「俺がお前に最高の勝利を与えてやる」

「……期待してる」

提督は俺から視線を逸らしてしまう。

名残惜しかったけど今日は仕方ない。また明日見ればいい。

それにしても、まだ胸が痛む。痛みなんて厄介なだけなのに、それは苦しさの中に別のものが混じっている。

俺の中で何かが形にならないまま叫んでいるようだ。

会えば分かると姉ちゃんたちは言ってたけど……確かにその通りだ。たぶん、今の俺の気持ちとはまったく違う意味で言ってたんだろうけど。

俺は特別な痛みを知った。

正体は分からない、俺だけの痛みを。

こんなにも甘い痛みがあるなんて知らなかった。

俺はきっと、この時にはもう惹かれていた。

ただ見てほしい。それは俺の中で確かな熱になって欲求に変わっていく。

――それだけ、ただそれだけだったはずなのに。

◇◆◇◆◇◆

全員との面談――という根回しが終わるまで結局三日もかかった。

初めは新しい顔触れだけにするはずだったが、鳥海から全員に伝えたほうがいいと言われて方針を変えたからだ。

そのお陰でと言うのは変かもしれないが手応えはあった。

もちろん木曾の行動に対して内心でどう受け止めたのかは分からない部分があるが、少なくとも俺がそれを許しているのは伝わっている。

そして木曾の営倉入りも解いて、これから二人で会うことになっていた。

格好だけは相変わらず病院服のままだが、今は病室ではなく波止場に立っている。あの日、南一号作戦の折に艦隊の帰りを待った場所に。

波を見つめて気ままに待っていると、鳥海に連れられて木曾がやってくるのが見えた。

二人は並んで歩いていて、何か話しているようだ。

そういえば今の木曾と初めて会った時は確か高雄に連れられてきたな……何かの縁でもあるのだろうか。

鳥海はある程度近くまで来ると立ち止まる。

木曾が何か言ったようだが、鳥海は首を横に振るのが見えた。

少しの間そのままだったが、木曾が一人でこっちに歩いてくる。俯き気味だが確かに近づいてくる。

鳥海は逆に離れていく。二人だけにしてくれるらしい。

何を話そうか、ほとんど考えていなかった。まあ、それはそれでいいさ。

たぶん話したいことなんて自然と出てくるだろう。

木曾は俺の前まで来ると立ち止まる。距離で言うなら畳二つ分か?

自分で想像してみてよく分からない喩えだが、話すには少しだけ遠い気がした。

一歩近づくと木曾も一歩引いた。もう一歩出ると同じように引く。

今は近づくのをやめた。

今じゃ立場が逆なのか。俺が木曾を避けていたはずなのに、今は木曾が俺を避けている。

「こんな気持ちだったんだな」

「……何がだよ?」

「見てもらいたいのに見てもらえない気持ち」

「っ!」

木曾が慌てて顔を上げる。

苦しめたくも縛りたくもなかったんだよ――木曾の声で覚えのない言葉が脳裏に思い浮んだ。

俺だってそうだ。木曾を苦しめたくない。自分になぞ縛られてほしくない。

「やつれてないか? ちゃんと食べてるのか?」

「っ……ああ。大丈夫だ、問題ない。さっきうどんを食べてきた。あいつが、鳥海が作ってくれた……茹ですぎの麺だったけど……」

木曾は俺の顔を見上げてくる。表情が硬い。

「なんなんだよ、提督といい鳥海といい……恨み言を言われると思ってたのに、真っ先に出たのが俺の心配とか。ほんと、なんなんだよ……」

「性分みたいなものだろ、きっと」

木曾はもう俺から目を逸らさなかった。

今の木曾と昔の木曾は違う。その違いは大きく、それでいて些細なことのように感じた。

少なくとも今の木曾と向き合っていれば、それはもう大事なことじゃなくなったと思える。

もっと早い内にそうやって受け止めてやれれば……。

「思い出したのか?」

「大体はな……」

「くくく……そいつはよかった」

「その笑い方って」

「どこかの誰かがひどい口癖を考えてくれたもんだよ」

「なんでだよ、天龍みたいで大物っぽいだろ」

「……ほんと、そういうところは変わってないんだな」

大真面目に言ってるようだ。お陰でどこからつっこんでいいのか分からない。

果たしてこれが天龍に似てるのか、そもそも天龍は大物なのか。夕立でもないのにぽいというぐらいだから、木曾は初めから天龍を大物とは思っていないんじゃないのかとか。

「何でやめなかったんだよ。その言い方」

「忘れられなかったからな。せっかく考えてくれたんだし、木曾がいた証を自分の中にだけでも残しておきたかった」

ひっくるめれば感傷だ。

木曾は大きく息を吐き出すと肩の力を抜いたようだった。同時に表情からも硬さが取れる。

「俺はどうしたらいい?」

「逆に訊くぞ。木曾はどうしたい? 俺にどうしてもらいたい?」

「……俺を見てほしい」

木曾は右目の眼帯をおもむろに外す。初めて見る彼女の右目は綺麗な琥珀色だった。軍艦の頃の名残かまぶたに傷跡が残っている。

「初めて見た時からずっと胸が痛かった。それがなんなのか俺には分からないままだった」

木曾のほうから近づいてくる。一歩はゆっくりしているが構わない。木曾を待つ。

「こうして向き合えば痛みの意味が分かると思ってた。この痛みにはきっと大事な意味があるんだって信じてた」

過去形か。それなら今は……。

「今なら分かるのか?」

「分からないままさ」

木曾は自嘲気味に笑う。

「それでも俺を見てほしい。提督も俺を見てくれ」

木曾はもうすぐ近くまで、手が届く距離まで来ていた。だから手を伸ばす。

木曾は逃げず、そのまま彼女の肩に触れる。いつか思ったように、やっぱり華奢だった。

「向き合えてよかった。きっと俺はずっとこうしたかったんだ」

「それは……」

どちらの木曾の望みだったのだろう。

いや、どちらでもいい。今は目の前の木曾を見ればいい。木曾の表情は乙女のそれだった。

「提督は……俺を許してくれるのか?」

「殴ったことか?」

「俺が生きて帰らなかったこと……大事な物を返せなかったことを」

無言で抱きしめると木曾が小さく息を漏らす。

このまま甘えたくなる。俺自身のために。

でも、そうじゃない。木曾から体を離す。

「お前が木曾の罪を背負うことはない」

「でも、俺は……木曾だぞ。球磨型の末女の……木曾なんだぞ」

「知ってる。それでも、それは木曾が背負うべきものじゃない。君が木曾であってもだ」

「だったら……せめて罰を与えてくれ。俺にだってけじめが必要なんだ。分かってくれとは言わない……」

「それなら生きろ。生きて、少しでも多くの敵を屠って仲間を救え。罰を望むなら生き続けろ。他の者がお前を見下したとしても泥をすすってでも戦え。俺はお前を死なせない。罰を望むなら俺が死ぬまで、一生をかけて罰を償ってもらう」

「一生か?」

「一生だ」

木曾は右目を眼帯で隠すとふっと笑う。そこにはもう後ろ暗さはない。

「二度目の……いいや、初めての約束か。軽巡洋艦、木曾! 提督との約束を、一命を懸けて守り通すと誓う!」

敬礼する木曾にこちらも答礼する。

俺たちはいつだって何かを失い、代わりに何かを得る。

だからせめて信じたい。得たもの、残るものの尊さこそが生きる意味になるのだと。

◇◆◇◆◇◆

いつしか痛みは疼きに変わっていった。

やがて、この痛みは風化して消え去ってしまうのだろうか?

それとも疼きとして、最期の時まで残り続けるのだろうか?

俺はその答えを知らない。

知らないからこそ、最期の時までこの答えを追い求めたいと思っている。

痛みが和らいでも、甘さは今も変わらない。それこそ俺が俺たる所以なのかもしれない。

出撃開始を知らせるブザーが鳴り響く。

時が移ろえども艦娘の役目は変わらない。そして俺の役目も。

いつか課したはずの罰はその意味を失い、それでも仲間のために戦うという言葉は今なおこの胸に残っている。

誓いは約束だ。俺はそれをもう違えない。それこそが俺の、木曾の有り様だ。

「重雷装巡洋艦、木曾! 抜錨する!」

最後のほうは駆け足になってしまいました。ごめんなさい
もしかするとおまけみたいなのを投下するかもしれませんので、html依頼とやらは一両日は出しませんが悪しからず

投下分ですが、台本形式と改行が多いとは言えカウントしてみたら8万5千文字越えてました……
本当、長々と付き合って頂いた方には感謝しかありません。

ひとまずこの場で謝辞を。ありがとうございました
たくさんのレス、ありがとうございます
というか、でち公要素がなかったのにでち公が……あ、うちのでちはオリョクル卒業しました
今週からはカレクルに活躍の場を移しています

ちょっと時間が空いてしまいましたが、おまけの一片を投下してみます
夜にもう一つ投下できたらしますし、ダメなら後書きのみで〆とさせていただきます

○間宮券の使い道

昼下がりの甘味処間宮。

艦娘たちが出払い人気のなくなった店内に似つかわしくない客が二人いた。

白衣を着たモヒカンの大男。彼は軍医であるが、手斧を得物に刺々しいスパイクアーマーを身に付け世紀末を闊歩するほうがずっと似合って見える男だった。

そしてもう一人は彼の助手として雑事を任されるている妖精だ。

眼鏡をかけ白衣を着た妖精は身長50cmほどで栗毛のショートボブ。アンテナのような一本毛がぴょこんと丸まるように生えている。

今は小皿に移された生クリームの乗ったプリンを食べるのに夢中になっていた。

「うまいか?」

基本的に妖精の声は人間に理解できないが、何を言いたいのかは直接脳内に語りかけてくるような感覚で伝わってくる。

そうでなくとも様子を見れば一目瞭然だった。

モヒカンの軍医は凶悪な笑みを浮かべる。もっとも彼に他意はないのだが。

提督がモヒと愛称で呼ぶ男の前にはガラスの器に装われた山盛りのパフェがある。いや、あったと言うべきか。

器に盛られていたアイスやフルーツはすでにモヒに食べられ、残りも時間の問題でしかない。

静かな店内には妖精がスプーンをかたかた動かす音だけが小さく響いていた。

そんな店内に一人の艦娘が入ってくる。

スミレ色の髪をした小柄な少女で、前髪には三日月の髪留めをしていた。セーラー服の彼女は睦月型駆逐艦の三番艦、弥生だ。

財布を握りしめた弥生はカウンターでショートケーキを二つ頼み、それを受け取るとふんすと満足げに鼻息を出す。

席を探す弥生に対し、モヒは目が合うとゆっくりと手を振る。

弥生はそれに気づくと彼の前の席に、妖精の隣に座った。

艦娘たちの間にはちょっとした噂がある。

妖精を連れた軍医の誘いに応じると間宮券がもらえると。

そして弥生はそれが本当の話だと知っている。以前も一度貰っているからだ。その時は望月も一緒だったが。

もちろんモヒもただで間宮券を渡すわけではない。代わりに艦娘の話を聞きたがる。

「確か君は、睦月型の弥生でよかったか?」

「そうです」

「今日は休みか?」

「えっと……最近は輸送任務が続いてたから、司令官がたまには休め、と」

「なるほどな、それで甘味の補給を?」

「補給は大事……です」

ケーキを口に運んだ弥生の顔が小さく綻ぶ。

「オフということは君の姉妹たちも今日は?」

「……はい、第三十駆逐隊全員です」

モヒは財布から一枚の間宮券を差し出す。

「もしよければだが、君らはオフに何をしてるか教えてくれないか?」

「……いいですよ」

弥生は頭に思い浮んだ顔から語り出す。

「望月は部屋でゲームしてる……よく誘ってくれるけど、いつも断っちゃう」

「一緒にやらないのか?」

「弥生は……下手だからFPSとかパズルも苦手……でも、誘ってくれるのが嬉しい……です」

「一緒にやれば望月とやらはもっと喜ぶのではないか?」

「そう、かな?」

「だから誘うもんだ」

「……うん。今度は、がんばる」

弥生の表情はあまり変わらない。ただ無表情が無感動とは言えない。

「如月は、女磨きが趣味」

「趣味なのか、それは?」

「じゃあ……生き甲斐? 司令官に振り向いてもらいたいみたい」

「あいつにか? そりゃ、なんというか……」

「でも、難しいかも……」

「どうしてそう思うんだ?」

「司令官は……あんまり駆逐艦に、興味なさそう」

モヒはどう言うべきか悩んだ。デリケートな話題だと心得ている。

ただ彼はそういった話は苦手だった。

「男にはフェチズムがあるんだが」

「フェチズムって……何?」

「好みというか属性というか……とにかく、そんなものがある」

「……うん?」

「そういうのは時間の経過と共に変わっていくんだ。巫女が大好きだったはずなのに、いつの間にかスク水の方が好きになっているとか」

「……金剛さんよりイムヤさんのほうがよくなる、と?」

「たぶん、そういうことだ。ここまでは分かるか?」

「全然、分からないです」

「つまり何が言いたいかと言うと……あれだよ、あれ。やつの好みがある日、突然変わって駆逐艦にしか興味が出ない体になるかもしれない。だから諦めるには早いってことだ」

弥生は考え考え、自分なりの結論を出す。ある日突然、司令官がロリコンに目覚めてしまうかもしれない、と。

(それはそれで……いやだなあ……)

口に出さなかったが、そんな感想に結びついた。

「睦月は……自主トレ中」

「ほう、オフなのに大したものだな」

「睦月が最強の駆逐艦だー!」

それまでの様子と一変した弥生の大声にモヒは驚き、助手の妖精は飛び上がっていた。

「最近は、そんなこと言ってる。ちょっと……恥ずかしい」

声マネが似てるのかはモヒにも分からないが、どんな様子かは伝わってくる。

「動体視力を養おうとして……数字を書いた砲弾を撃たせて、その数字を言い当ててようとしてる。でも、睦月はすぐ……デタラメを言う」

「……メンタルから鍛えたほうがいいんじゃないか」

「弥生もそう思う……でも、鍛え方が分からない」

「滝に打たれながら座禅か?」

「滝なんて……近くにない、ですから」

「風呂に入るとか」

「意味が分からない、です」

弥生はケーキを口に運ぼうとして、一旦止める。モヒを落ち着いた目で見上げる。

「最強って……なんでしょう?」

「難しい質問だが、そういうのは君らのほうがずっと分かるんじゃないか」

「みんな……考えることは違う、のです。睦月がどんなつもりで言ってるかまでは……」

「なら君はなれると思うのか?」

「無理です」

「ばっさりいくな」

「艤装のスペックは……高くないです。それに、私の思う最強は、自分で言うようなことじゃない、です。でも睦月ががんばってるのは……すごくいい、と思います」

弥生はケーキを食べ終えていた。

「自分を守れて、姉妹や友達を守れるなら、最強でなくっていいです」

弥生は立ち上がると一礼する。

「どうも、ありがとうございました。間宮券を頂いてしまって」

「ああ、それが俺の趣味みたいなもんだから気にするな。むしろ間宮券に釣られる君らが心配になる」

「それは……大丈夫です。この子を見れば、分かりますから」

弥生は妖精の後頭部をかくように撫でる。妖精は気持ちよさそうに目を閉じる。

「司令官もだけど……妖精にやさしい人はいい人……です」

モヒは答えない。ただし微かに苦い顔になる。

「それでは……」

弥生が立ち去ろうとすると、立て続けに艦娘たちが間宮に入ってくる。

「ゲームの後にはデザート。マジ自堕落ってさいこーだよねぇ」

「んふふ、やっぱりお風呂上がりには甘い物よね~」

「特訓の後のおやつ、いざ頂きます!」

「あ……みんなだ……こっちこっち」

弥生は揺れる波のような動きで手を振る。

モヒは内心で手を振るな、と念じたが弥生に届くはずもなかった。隠れる場所もないから見つかるのは必定でもある。

結局、彼は睦月型にたかられてさらに三枚の間宮券をここで失うこととなる。

終わるはずの雑談をさらに続けた後、モヒは四人が間宮を仲良く出て行くのを見届けてから助手の妖精に語りかける。

「なあ、俺っていい人か?」

妖精に尋ねると、妖精もはっきりと意思を示してくる。

その返答にモヒはため息をつくのだった。

こんな具合で、おまけは特にオチなしで断片的な物になります
あと、ここまで読む人なら台本形式でなくて大丈夫だろうという、作者の甘えが発生しております。ご了承を
ちなみに妖精さんは三式水中探信儀の彼女がモデルになっております

「私は金剛。戦艦デース」

「気合! 入れて! 作りました!」
「これ食べてもいいカナー?」

「姉様と私はぁ……ナカマジャナカッタンデュ……ヒエェ!」

「No! 私の体はボドボドデース!」(大破時)

「Drop. Fire. Gemini」『Burning Love』
「提督ゥゥゥゥゥッ!」

金剛がそうなったのは私の責任だ。だが私は謝らない
余談ですが、平成ライダーの中で一番好きなのが橘ギャレンだったりします
これで未実装艦の橘が来ればコラボも捗る……かもしれませんが、どうにも望み薄のような
そして、こちらの都合で申し訳ないですが、このまま後書きを投下し依頼を出して〆という形にしたいと思います

○後書き

まずはここまでお付き合い頂きありがとうございました。

正直言うと、書き始めなどここじゃ絶対に受けない文体だろ……と不安のほうが強かったです。
思ってみると杞憂というか、少なくとも悲観するほどではないみたいだと今はほっとしております。
今回の話はこれで完結ですが、同じ鎮守府での別の話を書きたいという気持ちがあるので、またその節が来たらよろしくお願いしたいと思います

裏話的な話を書くと、自分の場合は一度ノートに書き起こしてからPC上に打ち直すという手順でやってます。
全文をノートに書いてるわけじゃないですが、今回のは大学ノートがほぼ一冊埋まる程度には書いてありました。何かの参考までに?

ちなみに鳥海と島風のやり取りなどは初期構想ではまったく考えてませんでした
気づいたらキャラが勝手に動いてあんな話になってました。あの二人って接点のないキャラ同士ですが、こういうのが一つぐらいあってもいいんじゃないかな、なんて

そういえば、この話の主人公ですが自分の中ではやはり鳥海です
ただ主役として考えるなら、間違いなく提督、木曾、鳥海の三人なので、もしかすると読む人によって見え方は違うのかもしれません
自分は群像劇の類が好きなので、今回みたいに複数のキャラを動かして一つの話に集約させるのが肌に合うようです

もっと言うと、初めから鳥海を主人公として書いてたわけではありません
話の内容上、提督とも木曾とも違う視点で進めたかったので、あれこれ考えている内に秘書艦高雄の相談相手になる鳥海が起点としていい位置にいたので彼女に
ゲームよりも直情径行と本質的に好戦的という要素が出てはいますが、今では一番お気に入りの艦娘です

提督と鳥海の行く末ってのは、自分の中でも結構気になってる点ではあります
とまあ、後はいずれ何かSSという形でお披露目できればいいなと思う次第であります

最後になりますが、重ねてありがとうございました

元スレ:http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1432386050/

-高雄, 鳥海, 木曾